華北での活動とは? わかりやすく解説

華北での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 17:00 UTC 版)

張自忠」の記事における「華北での活動」の解説

北伐終了後1929年民国18年)春、馮玉祥蔣介石との対立激化すると、戦争準備のため、張自忠潼関警備司令任命された。まもなく第11軍軍長兼第26師長異動し洛陽以東で蔣側の唐生智軍と激しく戦う。1930年民国19年)の中原大戦でも第6師を率い各地で蔣軍との戦い繰り広げた。反蔣連合敗北すると、張自忠東北軍宋哲元率い東北辺防第3軍第2師(6月に第29軍第38師と改称師長編入されている。 1931年民国20年3月長城抗戦では、張自忠宋哲元指揮下で力戦する最終的に敗北したものの、国内からは賞賛を受ける戦いぶりだった。その後、第29軍の退却に伴い張自忠は第38師を率いて宣化駐屯している。1935年民国24年)、張自忠チャハル察哈爾)で日本軍部隊撃破した同年12月冀察政務委員会委員察哈爾省政府主席任命された。1936年民国25年5月天津市長異動した張自忠行政改革にも手腕発揮し日本からも注目を受ける政治家となった1937年民国26年3月張自忠13名の高級幹部支那駐屯軍日中親善として日本訪問したが、経済契約に関する交渉決裂した同年7月盧溝橋事件後、冀察政務委員会委員長宋哲元抗戦決断ができず、張自忠宋哲元意を受け日本側と和平交渉行った。しかし、もはや和平のなる状況ではなかった。張自忠日本軍からの勧誘拒否し8月6日副官の廖保貞・周宝衡とともに脱出東交民巷(中国語版)のドイツ人病院敷地内亡命した商人の趙子青とアメリカ人民俗学者ジョン・カルビン・ファーガソン(英語版)の計らい車の運転手変装して日本軍検問をかいくぐり、天津租界等を経由して秋までに南京撤退した。しかし戻って来た張自忠への世論風当たり厳しく蔣介石から懲戒処分を受け、軍事委員軍政中将部附に異動させられる

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華北での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:27 UTC 版)

商震」の記事における「華北での活動」の解説

1932年民国21年10月満州事変九・一八事変)後の日本軍対処するため、商震国民党中央軍事委員会北平分会代理委員長に任ぜられた。1933年民国22年2月長城日本軍脅かされたため、商震張学良から華北第2軍団司令に任ぜられた。商震懸命に抗戦したが、3月には敗退している。5月31日塘沽協定締結により、商震の第32軍は北平南苑まで撤退した同年10月商震北京近郊吉鴻昌方振武率い察哈爾民衆抗日同盟軍追い詰め最終的に交渉により2人降伏させた(ただし2人ともまもなく逃走)。 1935年民国24年4月商震二級上将の位を授与される6月土肥原・秦徳純協定一環河北省政府主席于学忠罷免されたため、商震が同政府主席返り咲いた6月には天津警備司令兼ねているこの頃日本側から親日政府樹立などを呼びかけられたが、商震はすべて拒絶した同年12月商震は各職を辞任し1936年民国25年1月河南省政府主席転じている。2月蔣介石から山西省入った紅軍討伐命じられたが、商震非協力的軍勢保持図った

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