華北での活動
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北伐終了後の1929年(民国18年)春、馮玉祥と蔣介石との対立が激化すると、戦争準備のため、張自忠は潼関警備司令に任命された。まもなく第11軍副軍長兼第26師師長に異動し、洛陽以東で蔣側の唐生智軍と激しく戦う。1930年(民国19年)の中原大戦でも第6師を率い、各地で蔣軍との戦いを繰り広げた。反蔣連合が敗北すると、張自忠は東北軍の宋哲元率いる東北辺防軍第3軍第2師(6月に第29軍第38師と改称)師長に編入されている。 1931年(民国20年)3月の長城抗戦では、張自忠も宋哲元指揮下で力戦する。最終的に敗北したものの、国内からは賞賛を受ける戦いぶりだった。その後、第29軍の退却に伴い、張自忠は第38師を率いて宣化に駐屯している。1935年(民国24年)、張自忠はチャハル(察哈爾)で日本軍部隊を撃破した。同年12月、冀察政務委員会委員兼察哈爾省政府主席に任命された。1936年(民国25年)5月、天津市長に異動した。張自忠は行政改革にも手腕を発揮し、日本からも注目を受ける政治家となった。1937年(民国26年)3月、張自忠は13名の高級幹部と支那駐屯軍の日中親善として日本へ訪問したが、経済契約に関する交渉は決裂した。 同年7月の盧溝橋事件後、冀察政務委員会委員長の宋哲元は抗戦の決断ができず、張自忠は宋哲元の意を受けて日本側と和平交渉を行った。しかし、もはや和平のなる状況ではなかった。張自忠は日本軍からの勧誘も拒否し、8月6日に副官の廖保貞・周宝衡とともに脱出、東交民巷(中国語版)のドイツ人病院敷地内に亡命した。商人の趙子青とアメリカ人民俗学者ジョン・カルビン・ファーガソン(英語版)の計らいで車の運転手に変装して日本軍の検問をかいくぐり、天津租界等を経由して秋までに南京に撤退した。しかし戻って来た張自忠への世論の風当たりは厳しく、蔣介石から懲戒処分を受け、軍事委員会軍政部中将部附に異動させられる。
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華北での活動
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1932年(民国21年)10月、満州事変(九・一八事変)後の日本軍に対処するため、商震は国民党中央軍事委員会北平分会代理委員長に任ぜられた。1933年(民国22年)2月、長城を日本軍に脅かされたため、商震は張学良から華北第2軍団司令に任ぜられた。商震は懸命に抗戦したが、3月には敗退している。5月31日、塘沽協定締結により、商震の第32軍は北平南苑まで撤退した。同年10月、商震は北京近郊で吉鴻昌・方振武率いる察哈爾民衆抗日同盟軍を追い詰め、最終的に交渉により2人を降伏させた(ただし2人ともまもなく逃走)。 1935年(民国24年)4月、商震は二級上将の位を授与される。6月、土肥原・秦徳純協定の一環で河北省政府主席于学忠が罷免されたため、商震が同政府主席に返り咲いた。6月には天津警備司令も兼ねている。この頃、日本側から親日政府樹立などを呼びかけられたが、商震はすべて拒絶した。同年12月、商震は各職を辞任し、1936年(民国25年)1月に河南省政府主席に転じている。2月、蔣介石から山西省に入った紅軍の討伐を命じられたが、商震は非協力的で軍勢の保持を図った。
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