華北を席巻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:18 UTC 版)
307年2月、征東大将軍を自称して挙兵すると、青州・徐州一帯へ侵攻して郡太守を討ち取った。当時朝政を掌握していた太傅司馬越は公車令鞠羨を東萊郡太守に抜擢して討伐を命じたが、王弥は返り討ちにして鞠羨の首級を挙げた。だが、兗州刺史苟晞に討伐軍を差し向けられると、大敗を喫して兵は離散してしまった。 当時、旧友であった劉淵が西晋に反乱を起こして挙兵しており、漢(後の前趙)を建国していた。その為、王弥は同じく趙・魏の地で反乱を起こしていた劉霊と合流すると、共に劉淵へ使者を派遣して恭順の意を示した。劉淵は王弥からの使者と分かるとその到来を大いに喜び、同年12月王弥を鎮東大将軍・青徐二州牧・都督縁海諸軍事に任じ、東萊公に封じる旨を伝えた。 308年3月、王弥は離散した兵を再び結集させて勢いを盛り返すと、苟晞と再び交戦して幾度も撃ち破った。さらには諸将を分けて青・徐・兗・豫の四州の諸郡へ侵攻させ、泰山・魯・譙・梁・陳・汝南・潁川・襄城など向かう所全てを攻め降し、太守・県令を多く殺害した。これにより王弥の兵力は数万を数えるようになり、朝廷の力ではもはや制御できない程となった。
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