華北統治機関の起源とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 華北統治機関の起源の意味・解説 

華北(ヒタイ)統治機関の起源

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:52 UTC 版)

燕京等処行尚書省」の記事における「華北ヒタイ統治機関起源」の解説

モンゴル勃興する以前12世紀華北支配した金朝では国務統理の機闘である尚書省執政官地方派遣され、その地で尚書省事務を行う場合に、これを「行尚書省もしくは行台尚書省」、略して行省」と呼称していた。1211年から金朝への侵攻始めたモンゴル帝国初代皇帝チンギス・カンはその領土大半奪い1215年には金朝から引き上げて今度西方中央アジア侵攻したモンゴル帝国河南一帯残存する金朝への抑えとして国王ムカリ率い駐屯軍置いたものの、征服した華北社会に対して代理人たるダルガチ設置するのみで、征服地の統治関心を示さなかった。 そのため、華北地方には「漢人世侯」と呼ばれる地方軍閥が勃興しその中でも特に大規模な勢力持ち主東平厳実済南張栄など)は金朝慣習に従って行省」と呼称されていた。一方華北駐屯しモンゴル軍司令官ムカリは「都行省」の称号呼ばれており、またかつて金朝首都であった中都(=燕京)に駐屯する石抹咸得卜は「燕京尚書省」と称していた。これらはいずれモンゴル帝国から正式に認められ呼称ではなく当時漢人軍閥なりモンゴル駐屯軍指揮官金朝地方最高機関たる「行省」と仮に呼称したものに過ぎないモンゴル帝国漢地統治において大きな転機となったのはマフムード・ヤラワチ赴任で、『元朝秘史』はヤラワチ赴任について以下のように記している。 ……サルタウルの民を取り終えてチンギス・カンにはまたまた聖旨を下さるるよう、「諸域、諸城には、ダルガチの官を置いて統べさせよ」と宣うたが、そのとき]、ヤラワチ、マスクトという名の二人父子で、クルムシという姓もてるサルタウル[人]が来たって、都[を統べるため]の慣習制度チンギス・カン上申したところ、「その慣習同じように、治めよ」と仰せあったので、……父のヤラワチは[内地に]連れ来たって、金国の[首都中都城を続べるようにしたのであったかように、サルタウル人のなかから、ヤラワチ、マスクトの二人を、都城制度慣習精通しているが故に[わざわざ選び出して]、金国の民を統べさすべく、[モンゴル人の]ダルガチとともに代官任命した次第であった。 — 『元朝秘史』第263このように漢地ヒタイ統治のために中都(=燕京)に派遣されヤラワチ燕京駐屯する石抹咸得卜ジャバル・ホージャらを部下として、漢地統治機関燕京等処行尚書省前身設立した。この統治機関権限燕京一帯限定されたものではなくモンゴルの支配下にある漢地全体及んでいたことは、ヤラワチ配下にあって燕京駐屯するジャバル・ホージャが「黄河以北鉄門以南天下達魯花赤」と称されていたことにも現れている。

※この「華北(ヒタイ)統治機関の起源」の解説は、「燕京等処行尚書省」の解説の一部です。
「華北(ヒタイ)統治機関の起源」を含む「燕京等処行尚書省」の記事については、「燕京等処行尚書省」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「華北統治機関の起源」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

華北統治機関の起源のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



華北統治機関の起源のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの燕京等処行尚書省 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS