漢人世侯とは? わかりやすく解説

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漢人世侯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 05:39 UTC 版)

漢人世侯(かんじんせこう)とは、末にモンゴル帝国に降った漢人有力者が貢納と軍事的協力の義務遂行を条件に、管下の人民に対する支配権力をモンゴルから授けられて成立した制度[1]


  1. ^ 池内1980,51-52頁
  2. ^ 杉山2004, p. 55-56.
  3. ^ 池内1980,52頁
  4. ^ 池内1954,29-30頁
  5. ^ 漢人世侯の一人、史天倪は「金の幽燕を棄て汴に遷都するは己に失策なり」と評したとされる(池内1954,30頁)
  6. ^ 『国朝分類』所収「易州大守郭君墓誌銘」は「金の貞祐、主は南遷し、元軍は北へ還る。この時河朔は墟となり、蕩然として統なし」と評する(池内1954,30頁)
  7. ^ 池内1954,30-31頁
  8. ^ 前者の代表としては「県人らが推して長となした」とされる王義・王善らが、後者の代表には「族党」を集めて自衛団を組織したとされる張柔、史秉直らがいる(池内1954,31-32頁)。
  9. ^ 池内1954,33-34頁
  10. ^ 安部1972, p. 15-16.
  11. ^ 例えば、保定の張柔は河北回復を掲げる金将の苗道潤の指揮下に入ったが、苗道潤が同じ金の将軍の賈瑀に暗殺されてしまった上、金朝朝廷がモンゴルとの戦いを最優先として賈瑀の暴挙を咎めようとしなかったことにより、最終的にモンゴルに降るに至っている(野沢1986,5-6頁)
  12. ^ 池内1984, p. 78-81.
  13. ^ 池内1984, p. 83.
  14. ^ この時任命された「三大元帥(万戸)」について、劉黒馬・史天沢の2名については諸史料が一致して記録しているが、残る一人については史料によって記述が異なる。『蒙兀児史記』では重喜と石抹札剌児を同一人物の別名とされるが、未だ定説はない(井戸1982, p. 40,56)。
  15. ^ 井戸1982, p. 40.
  16. ^ a b 井戸1982, p. 41.
  17. ^ 井戸1982, p. 43.
  18. ^ 『国朝名臣事略』巻6万戸厳武恵公,「甲午、朝於和林城、授東路行軍万戸、偏裨賜金符者八人。初、公之所統有全魏十分・齊之三・魯之九。及是、画境之制行、公之地、於魏則别為大名、又别名彭徳、齊与魯則復以徳・兖・濟・鄆帰於我」
  19. ^ 安部1972, p. 17.
  20. ^ 池内1984, p. 11.


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