舩坂弘の著書との比較
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「ペリリューの戦い」の記事における「舩坂弘の著書との比較」の解説
名越は『世界に生きる日本の心』本文で言及していないが、掲載された写真には詩文の後に出典として舩坂弘著『血風ペリリュー島』と記され、当該詩文は米軍公刊戦史に記された詩文としか紹介されていない。 米国公刊戦史には「この島を訪ねる、もろもろの国の旅人たちよ、あなたが日本を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を・・・・」とある 船坂 弘著「血風ペリリュー島」より” — 1987年『世界に生きる日本の心』231頁、写真1982年当該部分 船坂弘『血風ペリリュー島』(1981年)で該当する部分は、サンケイ新聞記者の住田良能記者が1978年にサンケイ新聞の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に記載されている。 “犠牲の大きい戦いだっただけに、米軍にとって、勝利はひときわ印象深かった。戦後太平洋方面最高司令官だったニミッツ提督は「制空、制海権を手中にした米軍が、一万余の死傷者を出してペリリューを占領したことは、いまもって大きなナゾである」と述べ、また米軍公刊戦史は「旅人よ、日本の国を過ぐることあれば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと」と讃えた。” — 1981年「血風ペリリュー島」P258における1978年住田記者の記事 「血風ペリリュー島」における住田良能記者の記事では出典は明記されていないが、それとほぼ同じ文章が、舩坂弘が監修し自身が経営する出版社から出した「栄光の軍旗あゝ我が水戸の二聯隊」(1972年大盛堂書店)に存在する。 “ペリリュー島攻撃は、米国の歴史に於ける他の如何なる上陸作戦にも見られない、最高の損害比率(約四〇パーセント)を出した。 既に制空、制海権を手中に納めていた米軍が死傷者併せて一万余人を数える犠牲者を出して、ペリリュー島を占領したことは、今もって大きな疑問である。━元太平洋方面最高指揮官C・Wニミッツ著『太平洋海戦史』より ○一行空白○ 旅人よ、日本の国を過ぐることあらば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国日本のために全員忠実に戦死せりと。(米軍公刊戦史より)” — 1972年栄光の軍あゝ我が水戸の二聯隊P271-272
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