興正菩薩叡尊十三回忌供養
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正安4年(1302年)は、真言律宗にとって忙しい年だった。宗祖である興正菩薩叡尊の十三回忌に当たるため、その供養として盛大な仏教美術事業が行われたのである。 まず、追善供養本尊として、木造騎獅文殊菩薩およびその脇侍(きょうじ、従者)である優填王(うでんおう)・最勝老人・仏陀波利(ぶっだはり)・善財童子の「文殊五尊像」が制作された。西大寺の彫刻作品は像内納入品が多いことで知られるが、この像はそれらの中でもさらに一二を争うほど多い方で、40種以上もの品目が納入されている。 文観との関わりで特に注目される像内納入品は、『大般若経』全600巻(現存は329巻)である。この書写事業は、もともと供養とは別に永仁元年(1293年)ごろから始められていたが、途中から叡尊供養のための事業に転用されたようで、特に正安(1299年)ごろからは急ピッチで事業が進められた。1巻1巻の奥書を確認してみると、西大寺だけではなく、近くの戒律関係寺院、さらには畿内各所にある西大寺末寺の僧侶たちで分担して書写していたことがわかる。当時の事業としては女性の活躍が多いのも特徴で、全体のおおよそ1/6に相当する部分が尼によって書写されている。西大寺本部内では、特に20代の若手僧侶が書写を担当した。 ところが、当時数え25歳の文観の名前は、書写を行った人物には入っていない。そのかわり、正安4年(1302年)4月から6月ごろにかけて、という事業の最終段階で、「転読」(経典の読誦)および「読交」(書写に誤りがないかの検査)を行っていたことが見える。本来、転読は第2世長老である信空が務めるべきほどの大任で、読交もまた最終検査として責任ある行為である。そのため、文観は、真言律宗の20代若手僧侶の中の出世頭として、着々と存在感を高めていたのではないか、という。 なお、この『大般若経』の奥書の中には「文観」と署名したものもあり(35巻奥書)、遅くともこの時点から文観という房号(僧侶としての仮の名)を名乗っていたようである。
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