興正菩薩叡尊十三回忌供養とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 興正菩薩叡尊十三回忌供養の意味・解説 

興正菩薩叡尊十三回忌供養

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「興正菩薩叡尊十三回忌供養」の解説

正安4年1302年)は、真言律宗にとって忙しい年だった。宗祖である興正菩薩叡尊十三回忌に当たるため、その供養として盛大な仏教美術事業が行われたのである。 まず、追善供養本尊として、木造騎獅文殊菩薩およびその脇侍きょうじ従者)である優填王(うでんおう)・最勝老人仏陀波利(ぶっだはり)・善財童子の「文殊尊像」が制作された。西大寺彫刻作品像内納入品が多いことで知られるが、この像はそれらの中でもさらに一二を争うほど多い方で、40種以上もの品目納入されている。 文観との関わりで特に注目される像内納入品は、『大般若経』全600巻(現存329巻)である。この書写事業は、もともと供養とは別に永仁元年1293年)ごろから始められていたが、途中から叡尊供養のための事業転用されたようで、特に正安1299年)ごろからは急ピッチで事業進められた。1巻1巻奥書確認してみると、西大寺だけではなく近く戒律関係寺院さらには畿内各所にある西大寺末寺僧侶たちで分担して書写していたことがわかる。当時の事業としては女性の活躍が多いのも特徴で、全体おおよそ1/6相当する部分が尼によって書写されている。西大寺本部内では、特に20代若手僧侶書写担当した。 ところが、当時数え25歳文観の名前は、書写行った人物には入っていない。そのかわり正安4年1302年4月から6月ごろにかけて、という事業の最終段階で、「転読」(経典読誦)および「読交」(書写誤りがないかの検査)を行っていたことが見える。本来、転読は第2世長老である信空務めるべきほどの大任で、読交もまた最終検査として責任ある行為である。そのため、文観は、真言律宗20代若手僧侶の中の出世頭として、着々と存在感高めていたのではないか、という。 なお、この『大般若経』の奥書中には文観」と署名したものもあり(35奥書)、遅くともこの時点から文観という房号(僧侶としての仮の名)を名乗っていたようである。

※この「興正菩薩叡尊十三回忌供養」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「興正菩薩叡尊十三回忌供養」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「興正菩薩叡尊十三回忌供養」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「興正菩薩叡尊十三回忌供養」の関連用語

興正菩薩叡尊十三回忌供養のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



興正菩薩叡尊十三回忌供養のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの文観 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS