統一新羅時代(660〜935年)
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「日本統治時代の朝鮮」の記事における「統一新羅時代(660〜935年)」の解説
正倉院所蔵の「中倉59 華厳経論帙」の内張紙にあった新羅の公文書(755〜867年とされるが、現在は815年説と695年説が有力)に4つの村落の戸数や人口について3年間の推移が記録されている。戸数は43戸、総人口は442人(男子194、女子248)で奴婢は25人とある。 戸数あたり10.2人であることから、前時代資料の戸数を参考にすれば推定人口は760万人である。 西原京近くの村落人員構成(一部)村名周長田合計人口沙害漸村 5725歩 165.2結 142名 薩下知村(と利何木杖谷の埋立地) 8770+4060歩 183.8結 125名 某村 欠落 欠落 69名 西原京某村 4800歩 107.5結 106名 沙害漸村の詳細 (表中の未成年は15歳以下)人口成人男(+未成年+老人等)成人女(同)合計内奴婢(男、女) 29(+32+1) 42(+36+2) 142 うち8(2、6) 計 男62名 女80名 合計142名 なお戸数11戸 子供3年間の出生(男、女)死亡(同) 内死亡奴婢(同) 13名(5、8) 4名(3、1) 1名(1、0)
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統一新羅時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:18 UTC 版)
統一新羅の時代にも中国に渡る僧は続き、末期にかけて唐から禅が伝来した。特に新羅第40代の哀荘王の時代(808年)には、法朗が禅宗四祖道信の教えを伝え、813年(憲康王5年)には、曹渓南禅系の馬祖道一の門下である智道の教えを道義が伝えた。その後も同様に、洪陟・円鑑玄昱・忍寂恵哲・通暁梵日・大朗慧無染・哲鑑道允・真徹利厳らが、曹渓南禅系の教えを伝え、九山禅門が成立した。
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