米軍との交戦と転進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/04 16:11 UTC 版)
「独立歩兵第363大隊 (日本軍)」の記事における「米軍との交戦と転進」の解説
ホロ島に辿り着いた大隊は、旅団の左地区隊として島西部のツマンタンガス山付近に配置され、陣地構築や教育訓練を行った。しかし、ホロ島に先住するモロ族からの襲撃を繰り返し受け、好戦的かつ戦闘上手なモロ族の前に戦死傷者が続出した。大隊側からも、ツマンタンガス山やクレター山周辺地域を対象に複数回の討伐作戦を実施した。 昭和20年4月9日、米軍第41師団の歩兵第163連隊戦闘団がホロ島北西部の飛行場付近に上陸した。飛行場を守備していた独立歩兵第365大隊を撃破した米軍は、同17日からツマンタンガス山方面に進出し、第363大隊と交戦した。その後、米軍は5月2日頃に一度撤退したものの、同7日から攻撃を再開し、大隊は12日以降、ツマンタンガス山中腹に後退した。この頃大隊の兵力は半減しており、また、食料が尽きたため栄養失調者が続出するようになった。 その後、しばらくの間は敵の攻撃が緩慢だったため、大隊は宿営地を移動しつつ食料収集に努めたが、7月中旬頃から再び攻勢が激しくなった。このため7月27日、大隊の残存将兵約180名は、ツマンタンガス山付近からカンガカン山、ダホ山を経て島中央部のシノマン山に向けて転進を開始した。同31日、大隊は途中のカンガカン山付近で米軍・モロ族の包囲攻撃を受け、中隊長2名ほか多数の将兵が戦死し、残存将兵は約50名となった。8月1日にもモロ族の攻撃を受けて中隊長1名が戦死し、10名近くの戦死傷者を出した。同5日、大隊はシノマン山南側に到着した。
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米軍との交戦と転進
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「独立歩兵第365大隊 (日本軍)」の記事における「米軍との交戦と転進」の解説
ホロ島に辿り着いた独立歩兵第365大隊は、旅団の右地区隊として、本部及び第1中隊をホロ島北西部の飛行場の南地区に、第2中隊を飛行場東のバチカル山付近に、第3中隊を飛行場に、第4中隊を飛行場南西のダット山付近に配置し、陣地構築に努めた。しかし、旅団はホロ島進出後、同島に先住する好戦的かつ戦闘上手なモロ族から繰り返し襲撃を受け、戦死傷者が続出した。第365大隊が守備する飛行場も、モロ族から白昼堂々襲撃を受けることがあった。 昭和20年4月9日、米軍第41師団の歩兵第163連隊戦闘団が飛行場付近に上陸した。飛行場を守る第365大隊は、半年間をかけて構築した陣地に拠って頑強に抵抗したものの、敵戦車の進出や砲撃に圧倒され、同11日夕刻までに第2、3中隊が玉砕し、ホロ市街と飛行場地域を占領された。大隊主力も米軍との激戦を始め、天明大隊長も玉砕を期していたところ、旅団参謀の武田喜久雄少佐(陸士45期)から玉砕を避けて持久すべき要請があり、大隊の残存兵力は11日夜からツマンタンガス山方面に転進し、13日夜までに同山に到着した。 その後、独立歩兵第363大隊を中心に、ツマンタンガス山付近で米軍との交戦が続いた。5月中旬以降、敵の攻撃が緩慢となったため、旅団の各部隊は宿営地を移動しつつ食料収集に努めたが、7月中旬頃から再び攻勢が激しくなった。このため7月27日、第365大隊は旅団砲兵隊の残存将兵とともに、ツマンタンガス山付近からダット山を経て島中央部のシノマン山に向けて転進を開始した。しかし転進途中、米軍の強力な攻撃とモロ族の執拗な襲撃により兵力の大部分を失い、8月6日、大隊と旅団砲兵隊の残兵合わせて約60名がシノマン山に到着した。
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