策を弄しすぎて崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/05 00:24 UTC 版)
山口は上記の通り、親分肌の性格で情に厚い男でもあった。したがって後に、フラワーラインに与してくれた選手たちに対し、順番にタイトルを取らせてあげようという考えに出るようになった。ところがこの策がやがて、フラワーライン崩壊の引き金を呼ぶことになってしまうのである。 例えば、地区が全く違うというのにラインを組ませたり(1983年のオールスター決勝における、滝澤正光の番手に菅田順和がついたケース)や、地元ということでその選手を勝たせる(1984年の日本選手権決勝における、清嶋彰一の番手に開催地の千葉をホームとする滝澤がつくようなケース)ことまで画策するようになった。 しかし競輪とは、最後は個人同士のぶつかり合いが魅力であるはずなのに、フラワーラインはその競輪の魅力を削ぎ取ってしまうという批判が続出したのである。また、中にはレース中ほとんど動きらしい動きをかけることなく、また車券圏内にさえ絡んでいないのに、レース後に「○○が勝って良かった」とコメントする選手もいた。つまり、その選手の絡みの車券を買っていたファンへの背信行為とも取られかねなかった。しかし、今の競輪の形へと進化していく過程で、フラワーラインの貢献はある程度、認めざるを得ない。なお、現在競輪の他の公営競技と違う魅力な点として「ライン」。そこから出来る、「展開」が存在することも事実である。 そして、競輪界はこうしたフラワーラインの不可解な並びの撲滅を図るべく、レース前の地乗りや事前コメントを徹底させるようになり、ひいては暗にフラワーラインを崩壊させる手段に出た。するとやがて各地区同士でラインを形成するようなレース形態に戻るとフラワーラインは自然消滅する形となった。フラワーラインの終焉は平成のはじめ頃だったという。
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