第2船:ノーチラス号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 10:01 UTC 版)
「アメリカ植民地協会」の記事における「第2船:ノーチラス号」の解説
モンロー大統領が現地の惨状について聞いたとき、妨げられてはいるものの植民地化運動は成功するものとまだ信じていた。サミュエル・ベイコンの兄弟であるエフレイム・ベイコン牧師を新しい遠征隊の指導者に任命して、最初の船の生き残りを集め、再度恒久的な開拓地を造るように仕向けた。ベイコンは数人の白人職員と33人の黒人植民者をノーチラス号に乗せて、エリザベス号がニューヨークを離れてから1年と少し経った1821年1月23日に、バージニア州ハンプトン・ローズから出航した。エリザベス号と同様に、ノーチラス号は問題なく大洋を渡った。フリータウンに一度上陸した後、一行はフォーラー湾に急行して最初の開拓者生き残りと合流し実態を把握した。 ベイコン達は海岸に沿ってさらに航海し、植民地を造るための適地を探した。先人達と同様に地元の大半の酋長達は喜んで土地を売らないという問題に直面した。4月になって、バッサの土地40平方マイル(100 km2)を購入する条約を結ぶことができたが、その価額が高すぎ、種族の王に毎年貢ぎ物をしなければならなかったので、協会は批准を拒んだ。土地を得られなかったことに憤懣を募らせたモンロー大統領はベイコンをイーライ・エアーズ博士に置き換えることにし、エアーズは1821年7月にUSSシャークに乗ってニューヨークを離れ、11月にアフリカに到着して現地の者達に会った。モンローはこれ以上失敗したくはなかったので、適切な領土を得るために軍事力を介入させることにし、エアーズを援助するためにロバート・ストックトン海軍大尉が指揮するUSSアリゲーターを派遣した。 エアーズとストックトンは海岸線を下って開拓に適した場所を探し、最終的にシエラレオネから約225マイル(360 km)南のケープ・メスラドに決めた。植民協会の代理人は以前にこの土地を購入しようとしていたが、その地域を支配するピーター王はにべもなく売却を拒否していた。この時はエアーズとストックトンが「否」を回答として受け付けるつもりはなかった。彼等は12月12日に岬に到着し、王との会見を求めた。最初はそれも断られたが執拗に要求して最後は謁見にまで結びつけた。ピーター王は彼等の欲しがる土地を売ることを拒んだが、翌日また交渉に戻ってくることに同意した。翌日王は自分の代わりに使者を送り、土地を売るつもりもないし、再度会見するつもりもないことを伝えさせた。エアーズとストックトンはこのような扱いに怒り、自分達の手で解決することにした。彼等は現地の案内人を雇って王の町に案内させ、再度会見を要求した。12月14日、ピーター王は彼等と会見したが、如何なる条件でもケープ・メスラドを売らないと再度伝えた。エアーズとストックトンは王が間違っていると分からせることにして、拳銃を抜いて王達に狙いをつけた(別の証言では協会の代表による武力行使についてはほとんど言明されていない)。銃を突きつけられたピーター王はケープ・メスラドをアメリカ人に売却することに「合意」した。翌日正式な合意書が結ばれ、エアーズとストックトンは然るべき量の大砲、火薬、寝台、衣服、鏡、食料、ラム酒および約300ドル相当のタバコと引き換えに植民地として岬を獲得した。 エアーズとストックトンはシエラレオネに戻り、2隻の船に植民者を乗せて新たに獲得した土地に向かった。最初の開拓地は現在の首都モンロビアがある場所に近いプロビデンス島だった。プロビデンス島には適切な清水源が無く、雨季が始まっていた。新しい開拓者の多くは1年前にエリザベス号の開拓者そうだったように、病気に罹り始めた。しかし、開拓地は生き残り、アメリカ政府に傭船されたブリッグ船ストロング号が1822年5月26日にハンプトン・ローズを発って8月8日にケープ・メスラドに到着したことで強化された。ストロング号は55人の自由黒人開拓者と共に食料やその他の物資を植民地に運んできた。
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