競争と協調と売却、1906年 - 1913年
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「セントラル・ロンドン鉄道」の記事における「競争と協調と売却、1906年 - 1913年」の解説
1906年から、セントラル・ロンドン鉄道は旅客数が大幅に落ち込むようになった。これは、1905年にインナーサークルを電化したディストリクト鉄道やメトロポリタン鉄道、そして1906年にハマースミスまでの競合路線を開業させたグレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道との競争が激しくなったためであった。またバスが馬車に取って代わるようになり、道路交通との競争も激しくなった。収入を維持するために、それまで均一運賃だったのを長距離については1907年7月から3ペンスに値上げし、一方短距離については1909年3月に1ペニーに値下げした。回数券は以前は額面通りの値段で販売されていたが割引が行われるようになり、1911年7月に定期券が導入された。 セントラル・ロンドン鉄道では、技術の発展を利用して合理化を図った。1909年にデッドマン装置が運転台に取り付けられ、また打子式の自動列車停止装置が導入されたことで、安全対策として運転助士を乗務させる必要がなくなった。信号の自動化により、路線に16か所あった信号扱所の多くが廃止され、これに伴って信号扱手も削減された。1911年からは小包輸送サービスを開始し、4本の列車の先頭車両を改造して小包の仕分けを行える部屋を造った。小包は各駅で集荷され、三輪自転車に乗って配達するスタッフが目的地に届けた。これはいくらかの利益を上げたが、戦時の労働力不足により1917年に廃止された。 収入の減少はセントラル・ロンドン鉄道に限られた問題ではなく、ロンドンのすべてのチューブ、そしてディストリクト鉄道やメトロポリタン鉄道にも競争がある程度の影響を与えていた。旅客数の減少により収入も減少し、借りた資金の返済や株主への配当支払いが困難となっていた。セントラル・ロンドン鉄道の配当は1905年から3パーセントにまで減少したが、ロンドン地下電気鉄道の路線に至っては0.75パーセントであった。1907年から、セントラル・ロンドン鉄道、ロンドン地下電気鉄道、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道、そしてグレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道は運賃協定を導入した。1908年からは共通のUndergroundというブランド名で宣伝し始めた。秘密裏に行われた買収交渉の後の1912年11月に、ロンドン地下電気鉄道はセントラル・ロンドン鉄道の買収を発表し、株式を1株対1株で交換することとした。買収は1913年1月1日付で行われたが、法的にはセントラル・ロンドン鉄道の会社組織はロンドン地下電気鉄道の各路線とは別のままであった。
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