秋元氏時代から廃藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/27 15:44 UTC 版)
翌寛永10年(1633年)2月、谷村には上野国総社藩から移封された秋元泰朝が1万8000石で入った。秋元氏は総社時代にも利根川の治水事業を行っているが、郡内領でも泰朝期の事業であるとも伝わる谷村大堰や富朝期の植林事業、喬知期の新倉掘抜の開削など用水堰の開削を行い、養蚕の奨励や後に郡内織として特産物となる機織の振興などを行ったという。また、喬知期の元禄7年には25か条の郷中法度が定められた。一方で、秋元氏時代には寛文7年(1667年)・延宝8年(1680年)などに百姓による越訴なども起こっている。 秋元氏時代には藩政機構が整備されていたが、宝永元年(1704年)12月に喬知が武蔵国川越藩に移封され、川越藩主であった柳沢吉保が甲府城主となって谷村藩は廃藩となり、郡内領は預地支配となる。翌年2月には谷村城も破却される。武家屋敷地も引き払われ、谷村は商業的要地として城下町から町場へと変貌する。後に甲斐一国は幕領化され、代官支配となり、郡内領は谷村に置かれた谷村代官所支配となる。
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