神流川の戦いと伊勢帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 04:44 UTC 版)
6月16日、信長の死に乗じ、小田原城の北条氏直(氏政の嫡男)、鉢形城主・北条氏邦(氏政の弟)、北条氏政、北条氏照、北条氏規ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻してきた。 一益は、厩橋城に滝川忠征、松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1,500騎を置き、1万8千の兵を率いて和田に陣を構え北条勢を迎え撃ち、6月18日の初戦は滝川勢が勝利したが、翌6月19日の合戦では北条勢が勝利した。この時、篠岡、津田、太田、栗田など500騎が踏み止まって討死し、上州衆では木部貞朝、倉賀野秀景の子(五郎太、六弥太)等が討死した(神流川の戦い)。 同夜、一益は倉賀野城を経て厩橋に戻り、城下の長昌寺において戦死者の供養を行った(『依田記』『上野古戦録』)。6月20日一益は人質であった北条高広の次男を返し、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いたという。一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、その夜、箕輪城を旅立った。 一益は津田秀政の守る松井田城を経てその城兵1,500騎を加え2千強の兵とし、碓氷峠を越え、6月21日に道家正栄の守る小諸城に入った。この時、佐久・小県の人質を伴っており、この中には依田康国や真田昌幸の老母・恭雲院が加わっていたという。一益は自身の本拠である伊勢長島に退去するつもりであったが、木曽郡の木曾義昌が一益の通行を拒否してきた。一益は義昌に「通してくれれば佐久郡・小県郡の人質を進上しよう」ともちかけ、義昌はこれを了承した。 一益は、6月27日に小諸城を依田信蕃に引き渡して旅立ち、6月28日に義昌の居城・福島城で人質を引き渡し、ようやく織田の領国である美濃国に入ることができた。一益は清洲にて三法師(織田秀信)に拝礼後、7月1日伊勢に帰ったという。なお、この途上にあった6月27日には清洲会議が開かれたが、一益は出席できず、織田家における一益の地位は急落した(一方、佐久・小県郡の人質は、9月17日に木曽義昌から徳川家康に引き渡されている)。なお、近年の新説として、清洲会議の前日である6月26日付で秀吉から一益に充てて家康と連携して北条軍を防ぐように求める書状が出されていることから、北条軍と戦っている(と思われていた)一益は会議には間に合わないと考えられて、最初から呼ばれていなかったとする説もある。
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