矢野の歴史とは? わかりやすく解説

矢野の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 16:52 UTC 版)

矢野町」の記事における「矢野の歴史」の解説

矢野広島市域でも古くから歴史のある地で、矢野中心に安芸郡坂町呉市天応押込地区安芸郡熊野町川角平谷地区まで含めてかつては養隈(やの)と呼ばれていた。 縄文時代早期には人が暮らし矢野小学校校庭から縄文土器弥生土器石斧などが出土している。 平安時代安芸熊谷氏により矢野城築城され、城下町として発達また、音戸の瀬戸開いた平清盛厳島への航路近く広島湾から更に湾になっているため、港津港町矢野浦)としても発達した1335年12月23日矢野城足利尊氏呼応して挙兵し武田信武らの軍勢攻め込まれ熊谷蓮覚はじめとする熊谷氏傍流一族らは昼夜別な四日間にわたり幕府軍勢と戦った敗れたその後1445年尾張国より野間重能が矢野城入り近隣平賀氏小早川氏争い繰り返し勢力拡大した1554年9月7日毛利元就3000をもって矢野城総攻撃野間一族虐殺され、このとき矢野城廃城になった推測される。この矢野城攻防悲惨さを語る野間隆実の「野間火」は、永く里人語り草となっている。 江戸時代矢野漁船溜り商港として栄え明治時代に入ると、1870年矢野長慶寺に「啓迪舎」が開設され広島県小学校さきがけとなった1903年官設鉄道海田市駅-呉駅開業により矢野駅設置1935年矢野新開先を埋め立て大日本帝国軍基地となる。 1907年7月15日集中豪雨により矢野川にて土石流発生死者64人、負傷者62人、家屋流失損壊152棟。以後死者を伴う矢野川土石流災害頻発する矢野町史では、土砂災害拡大した原因一つ前年から始まった矢野峠の工事指摘している。 1945年8月6日広島市中心部原子爆弾投下されるも、矢野地区広島都心爆心地)との間には黄金山があり、爆風被害がほとんどなかった。 1975年広島市編入合併

※この「矢野の歴史」の解説は、「矢野町」の解説の一部です。
「矢野の歴史」を含む「矢野町」の記事については、「矢野町」の概要を参照ください。

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