発足から第二次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 22:55 UTC 版)
「ザルツブルク音楽祭」の記事における「発足から第二次世界大戦まで」の解説
第一次世界大戦末期の1917年、演出家マックス・ラインハルトが現在につながる音楽祭の実施を考え祝祭劇場協会を発足、やがてフーゴー・フォン・ホーフマンスタールらが委員に加わり、1920年に第一回の「ザルツブルク・フェスティヴァル(音楽祭)」が開かれた。この年は、ラインハルト演出のホーフマンスタールの演劇「イェーダーマン」のみの上演であったが、1921年にはコンサートも加えられモーツァルト作品が取り上げられるようになり、1922年にはオペラも上演されるようになった。初期からリヒャルト・シュトラウス、ワルターが積極的に参加しており、その後はトスカニーニ、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュなど、世界を代表する指揮者が次々に参加する音楽祭として発展していく。 しかし、1938年のオーストリア併合は音楽祭の流れを大きく変えてしまった。併合前後から歌手の出演に対する干渉が始まっており、併合不可避となった時点でトスカニーニ、ワルターなどユダヤ人音楽家やナチに反対する音楽家が去った。1939年の音楽祭は第二次世界大戦勃発に伴い途中で中止され、翌1940年にはナチの干渉がありながらも辛うじて開催されたが、「ドイツの"音楽祭"はバイロイトだけで十分だ」という理由で「ザルツブルク、音楽と演劇の夏」という名前に変えられた。1941年からはクレメンス・クラウスを音楽監督に据えて辛うじて継続したが、1944年の音楽祭は直前のヒトラー暗殺未遂事件(ヴァルキューレ作戦)の影響と「総力戦」の発令に空襲の危険から、フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルによるただ1回のコンサート(ブルックナーの交響曲第8番)と、シュナイダーハン四重奏団のコンサート1回、リヒャルト・シュトラウスの新作歌劇「ダナエの愛」のゲネラルプローベだけが行われた。そんな中、1938年にワルターの代役としてカール・ベームが初出演し、戦後一時期の活動自粛時期を除いて1980年まで音楽祭の中心として活躍することになる。カラヤンも1938年に本格的な初出演(以前に舞台の伴奏を指揮したことはある)をする予定であったが、指揮する予定の歌劇(「魔笛」)が選から漏れ、初出演は1948年まで待たされることになった。
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