紫香楽宮
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紫香楽宮(しがらきのみや、信楽宮)は、奈良時代に聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮。のちに「甲賀宮(こうかのみや)」とも。
- ^ 飯沼賢治「信仰の広がり」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P160-161
- ^ “紫香楽宮跡(甲賀寺跡)滋賀県観光情報[公式観光サイト]” (2015年6月26日). 2021年4月10日閲覧。
甲賀宮
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744年(天平16年)、信楽宮から甲賀宮へ宮名の変化が徐々にあらわれ、11月には甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられた。 745年(天平17年)1月には新京と呼ばれ、宮門に大楯と槍が立てられ、甲賀宮が都とされた。更に同年4月15日には、流罪となっていた塩焼王を許して京に入ることを許していることから、実態は不明ながら京(紫香楽京)の範囲が設定されていたとみられる。しかし人臣の賛同を得られず、また山火事や天平地震などの天災と不幸なことが相次ぎ、同年5月に平城京へ戻ることになった。このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は、「奈良の大仏」東大寺盧舎那仏像として完成されることになった。 紫香楽の地は、当時の感覚においては余りに山奥である事から、ここを都としたことを巡っては諸説があり、恭仁京周辺に根拠を持つ橘氏に対抗して藤原仲麻呂ら藤原氏が関与したとする説や天皇が自らの仏教信仰の拠点を求めて良弁・行基などの僧侶の助言を受けて選定したとする説などがある(なお、藤原氏と同氏出身の光明皇后に関しては紫香楽宮放棄と大仏計画中止の原因になった紫香楽周辺での不審な山火事に関与したとする説もある)。
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