甲子園の砂
甲子園の土
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/22 22:22 UTC 版)
甲子園の土(こうしえんのつち)
- 1 甲子園の土とは
- 2 甲子園の土の概要
甲子園の土
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 15:52 UTC 版)
「本村康祐・西岡隼基のオールナイトニッポン0(ZERO)」の記事における「甲子園の土」の解説
甲子園球児が思い出に持って帰る阪神甲子園球場の土の使い道を募集する。これまた1回きりで終了。このコーナーで名前をとちったことから新コーナーが生まれた。
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甲子園の土
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:51 UTC 版)
現在では甲子園での最後となった試合の後に選手が土を拾って持ち帰ることが伝統となっているが、いつごろに定着したかははっきりしていない。定着する以前の具体的な持ち帰り事例には以下の3例がある。 1937年、夏の第23回大会で、熊本工業は決勝戦で敗れて準優勝に終わった。決勝戦終了後に、熊本工の投手だった川上哲治(のち読売ジャイアンツ監督)は甲子園の土をユニフォームのポケットに入れ、自校の練習場にまいた。川上自身は甲子園以外で同様のことをしている選手の真似であったことを語っている。 1946年、夏の第28回大会では、準決勝にて敗れた東京高等師範附属中(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の佐々木迪夫監督が、最上級生以外の選手達に(この中に竹田晃がいた)来年また返しに来るという意味で、各ポジションの土を手ぬぐいに包んで持ち帰らせた。ただしこれは米軍接収中の甲子園ではなく阪急西宮球場でのことである。これは新聞で記録されている最古の持ち帰りである。 1949年、夏の第31回大会で、準々決勝で敗れた小倉北のエース福嶋一雄が、ホームベースの後方で無意識に足元の土を摘んでズボンの後ろポケットに入れた。大会役員からの励ましの速達で無意識の行為に気付いた福嶋はユニフォームから土を取り出し、玄関に置いてあるゴムの木の植木鉢に入れた。 学校や指導者の方針によっては土を持ち帰らないことがあり、監督として春夏通算10回出場した野々村直通は試合に敗れても選手に土を持ち帰らせなかった。また出場機会を残す選手が「次も来る」という意思表示で持ち帰らないケースもある。特に春の大会では常連校ほど持ち帰らない傾向にある。 1958年当時の沖縄はアメリカ統治下にあった。その夏の大会で、春夏を通じて初めて沖縄から首里が出場。1回戦で敦賀(福井)に敗戦し、試合終了後に甲子園の土を拾った。しかし検疫の関係で沖縄に持ち帰ることができず、帰郷後処分されたという。外国の土・動植物を検疫を経ずに持ち込む事はどこの国でも法で禁じられているが、沖縄以外のもの(外国や日本本土も含めて)という理由での処分にも関わらず、那覇港の沿岸に捨てられている。なお、那覇港にてアメリカ人職員が高圧的に没収したわけではなく、沖縄の係官が申し訳なさそうに「規則なので…」といった感じでの没収だったため、申し出ずに土を持ちかえった高校生もいたという。それを知った日本航空の客室乗務員有志らが、球場周辺にあった海岸の石を拾い首里に寄贈。同校庭に、今も甲子園初出場を記念した「友愛の碑」というモニュメントとして飾られている。また、これがメディアで扱われ、沖縄返還運動を加速させる一端ともなったといわれている。 2020年6月8日、新型コロナウイルスの流行により同年夏の大会が中止になったことをうけ、阪神タイガースの矢野燿大監督の提案により、同球団と阪神甲子園球場から日本高野連に加盟する約5万人の3年生野球部員全員に、甲子園の土を入れたキーホルダーがプレゼントされることになった。 敗者の儀式として有名であるが優勝校も持ち帰る。決勝戦出場校は表彰式等のその後のプログラムが全て終わった後、グラウンドから引き揚げるときに土を持ち帰る。 なお、土は定期的に補充されているため枯渇することはない。
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甲子園の土
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 00:06 UTC 版)
「沖縄県立首里高等学校」の記事における「甲子園の土」の解説
1958年(昭和33年)、戦後初めて全国高等学校野球選手権大会の沖縄代表として出場した。これは第40回の記念大会として特別に当時の日本の46都道府県とともにアメリカ統治下にあった沖縄県の予選大会が開かれ、そこで優勝した当高校が甲子園への出場権を獲得したものである。1回戦で福井県・敦賀高等学校に0-3で敗れたが、試合終了後に拾った甲子園の土が、当時は日本国とは別国家であった琉球政府(事実上は米軍の軍政)の検疫の問題で持ち帰れず那覇港で処分されたことが大きく報じられ、それを知った日本航空のスチュワーデスが甲子園球場周辺の海岸の石を拾い集めて寄贈した。現在この石は首里高校の敷地内にある「友愛の碑」というモニュメントに埋め込まれており、戦後沖縄からの初出場の記念として飾られている(当該項参照)。
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