生まれてから塩谷奉正の養子となるまで
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「塩谷正義 (代官)」の記事における「生まれてから塩谷奉正の養子となるまで」の解説
粟津清喬の次男(庶子)として武蔵国葛飾郡に生まれる。 粟津氏は、平安時代に酒呑童子を退治したと伝わる源頼光の支流と言われ、近江の粟津を発祥とする一族であった。正義の粟津家は、元和2年(1616年)に御徒(おかち)として江戸幕府に仕え、代々鳥見役として150俵扶持を得てきた御家人の家柄である。天明4年(1784年)5月25日、正義が16歳の時に父清喬は二条城の鉄砲奉行になるが、その2年後の天明6年(1786年)8月4日、その父が京都で没して、兄の清郷が28歳で家督を継いだ。その頃正義は、岡田寒泉を師事し、寒泉精舎という塾に通って学問に励んでいた。 一方で、正義がのちに養子に入る塩谷義通流の塩谷家は、家禄が25俵取りという微禄の家柄で、粟津家よりも家格が低い御家人であった。時の当主塩谷奉正は、子に恵まれなかったわけではなかったが、天明6年(1786年)に嫡男正房が33歳で奉正に先立って没すると、正房の遺児である鉄之丞を養子とするも、これも間もなく病死した。次男正住は病者のために家督を継げず、三男正英(鈴木正誼)はすでに養子に出しており、家督を継ぐ者がいなくなっていた。奉正の周囲では、こうした不幸が続いたものかは不明だが、奉正は、弟の正澄の娘や嫡男正房の妻の父中村孝邦の娘(正房室の妹)を養女としており、正房が亡くなった後は、正房の娘も養女としていた。 そこで奉正は、正房の死から2年後の天明8年(1788年)11月25日、養女としていた正房の娘おかねの婿として鳥見役粟津家の次男正義に白羽の矢を立て、粟津家もこれを受け、20歳となっていた正義は、かねを妻として婿養子として塩谷家に入った。正義は初め、塩谷惟寅(これのぶ)と名乗った。
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