玩具工場の誘致
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 15:02 UTC 版)
1950年代末、東京都墨田区に林立していた輸出用玩具メーカーは、地価の高騰による生産設備の拡大のための用地取得の困難や固定資産税負担の増大、工場等制限法による工場の拡張や改修の制限、さらに低海抜地域であることによる台風や水害など自然災害の際の被害といった問題を抱えていた。 そこで東京オリンピックを4年後に控えた1960年(昭和35年)、当時の東京玩具組合長であった富山栄市郎(トミー創業者)は、工場などの設備を他の場所に移転して工業団地を形成するという計画を立てた。 1961年(昭和36年)には千葉県東葛飾郡流山町(現:流山市)が移転候補として上がり、一部用地取得も行われたが、土地価格高騰や地主の反対などが原因で断念。 翌1962年(昭和37年)に輸出玩具工場団地協同組合を結成し、代替地の選定にあたった結果、第二次世界大戦中に使われた飛行場跡地のある、壬生町大字安塚(当時)南部の一帯が選ばれる。この計画に対し、壬生町および沿線の土地を所有していた東武鉄道が積極的に誘致したため、同年に組合は壬生町への進出を正式に決定した。 1964年(昭和39年)より工業団地造成と宅地開発を進め、翌1965年(昭和40年)には第一期工事が完了し、おもちゃ団地として11企業が操業を開始した。 また同1964年には従業員の交通の便のため、東武宇都宮線国谷駅-安塚駅間におもちゃのまち駅が新設され、4月1日より仮営業を開始、6月7日には正式開業した。トミーによれば、駅名を命名したのは富山栄市郎である。新団地および工場にふさわしい夢のある駅になってほしいという思いを込めて、「おもちゃのまち」とすべて平仮名表記とされた。 1966年(昭和41年)には第二期工事に合わせて建売住宅の販売が始まり、ベッドタウンとしても急速な発展を遂げていった。
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