犬の収容
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「犬小屋 (江戸幕府)」の記事における「犬の収容」の解説
大久保・四谷・中野の犬小屋の完成後、江戸中の犬を全て捕らえ、犬小屋への収容を開始した。四谷の犬小屋では元禄8年5月25日から開始され、同年6月3日の江戸の町触では、「人に荒き犬」を収容しているので、「人に荒き犬」がいたならば町奉行所に書面をもって届け出るようにと申し渡していた(『江戸町触集成』三二一八号)。中野犬小屋への犬の収容は元禄8年11月24日から開始された(『正宝事録』八五四号)。 犬の捕獲を担当したのは小人目付だった。元禄13年(1700年)7月12日の町触では犬を追う小人目付の周囲に集まった見物人が、うまくいっている時は褒め、失敗すると嘲笑するため、目付衆は町奉行に犬移しの際には番人を出して人払いをするよう依頼した(『江戸町触集成』三六三七号)。 小人目付が捕獲した犬を、犬小屋まで移送するのは町人の負担だった。犬小屋への犬の移送は、駕籠によるもののほか、刺子に抱え込む、馬車で運ぶなどした。町名や「御用犬」と書かれた幟を立て、それぞれの町名主が人足に付き添って中野まで犬を移送することになり、四谷口から中野までの2里余の道路は行き交う隙間がないほどであった(田中休愚著『民間省要』)。宝永3年(1706年)8月17日、代官支配地の市ヶ谷薬王寺前町(現・東京都新宿区)の徳兵衛は、町内の母犬2匹と子犬12匹を明後日の19日に中野犬小屋へ移送することを命じられ、その際に勘定奉行の荻原重秀・石尾氏信・中山時春・戸川安廣は、代官の雨宮勘兵衛に犬の移送を要請した(「竹橋蠧簡(ちっきょうとかん)」「宝永三戌年書状留」)。このように、犬移送の決済は、江戸の町であっても代官支配地であれば勘定奉行から代官を通じて行われた。 収容された犬数は、 中野の犬小屋には約8万2000匹余の犬が収容された - 「政隣記」元禄8年12月6日条 中野犬小屋へは毎日30匹から50匹くらいの犬が収容された - 『鸚鵡籠中記』元禄9年6月12日条 中野や大久保の犬小屋に収容されていた犬の数は元禄8年10月には4万2108匹、元禄9年6月が4万8748匹 - 元禄10年の町奉行所の書上(『正宝事録』八五四号、『江戸町触集成』三二九五号) 不日に十万頭に及ぶといへり(日ならずして十万頭を数えた) - 『徳川実紀』 となる。町中で飼われている犬は、下屋敷や領地へ移したければ遠慮なく送り、犬小屋でも引き取る旨が申し渡され(『御当家令条』五一五号)、元禄10年7月18日の町触では江戸の町々に「残犬」や「紛犬」の犬数を調査するよう命じ(『江戸町触集成』三三三二号)、同16年10月の町触では無主犬が多く集まって町内の人々や道路往来の者たちの支障になっていたため、町奉行所に届け出るように申し渡した(『江戸町触集成』同三八二九号)。
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