漢・田代祐一とは? わかりやすく解説

漢・田代祐一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/19 15:14 UTC 版)

田代祐一」の記事における「漢・田代祐一」の解説

田代祐一1980年代半ばから一躍全国区躍り出た選手である。 1977年、父(田代禮三。元船橋オートレース場所属。期前、引退)の後を追ってデビュー当初川口配属されたが、まもなく新設され伊勢崎オートレース場転属となった1982年第14回日本選手権オートレース飯塚オートレース場)にフジ単気筒で特別初出場果たしたものの、その時初日試走時に落車してしまった。 翌1983年第15回日本選手権オートレース浜松オートレース場)にはトライアンフ乗り換えて出場当時準決勝戦は第9、第10、第11レースの3個レースか行われておらず、優勝戦へ勝ち上がれるのは、準決勝での1、2着の選手と、3着の選手のうち競走タイム上位二名であった。この準決勝戦で3着となった田代は、同じく準決勝戦で3着だった飯塚将光とのタイム差、それもコンマ数秒の差で敗れ優勝戦への進出逃してしまった。 その後記念レースいくつも制覇した田代だったが、特別レース=日本選手権オートレースはなお高い壁として存在していた。 しかし、1988年3月15日新設され特別競走全日本選抜オートレース優勝飾り流れ掴んだ当人曰く、「乗り手としては1982年83年の頃の方が上だったと思う」との事だが、「この優勝ツキ変わった」とも言っている。 そして、1988年11月3日飯塚オートレース場開催され第20回日本選手権オートレース歴代優勝戦史上でもトップクラス死闘果てに、田代念願選手権制覇成し遂げたのである。 この大会で飯塚将光選手権3連覇かかっていた。そしてもう一つ浜松オートレース場エースであった鈴木辰己新開発されて間もないニューフジ二気筒で参戦していた点でも注目集まっていたが、彼らを相手田代は見事勝利を収めた。1着の田代と2着の飯塚競走タイムは同タイムであった伊勢崎オートレース場所属選手日本選手権オートレース制覇したのはこれが初であった。かつて山元正次、土田一男8期引退)といったベテランがこのタイトル挑み、後一歩のところで逃していた。

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