滅亡後のアッシリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 08:09 UTC 版)
「新アッシリア帝国」の記事における「滅亡後のアッシリア」の解説
滅亡後、アッシリアはメディア国によってアスラ(Athura。アッシリアと呼ぶときもある)として短期間、統治された。皮肉にも、バビロンの最後の王ナボニドゥスとその息子ベルシャザルはハッラーン出身のアッシリア人だった。この後、アケメネス朝ペルシアにより支配され(アッシリアはペルシアに対して、紀元前520年に再度、反乱を起こした)、その後はギリシアのセレウコス朝、サーサーン朝ペルシア、パルティアなどに支配者が変わっていった。短期間ではあるが、トラヤヌス帝のローマ帝国の支配を受けたこともある。 アッシリアは属州として生き残るとともに、その名もまた、様々な形で生き残った(アスラ(Athura)、アスリスタン(Asuristan)、ローマのアッシリア州、セレウコス朝シリアなど)。その土地はペルシア人、ギリシア人、ローマ人、アルメニア人、ジョージア人、ビザンツ人らによってアッシリアの名残として認識されたが、紀元7世紀にアラブ人により征服された後、アッシリア州はついに解体された。 その一方で、アッシリアの文化は生き延びた。アッシリア・バビロニアの神々は、紀元4世紀のキリスト教の時代になっても盛んに崇拝されていたし、紀元3世紀後半になってもなお、アッシュル神の神殿はその母体都市で捧げられていた。アッシュル、ハトラ、オスロエネ、アディアバネなど、紀元前2世紀から紀元4世紀の間にアッシリア地域に発生した多くの王国は、アッシリアのアイデンティティを持つ。キリスト教は紀元1~3世紀に確立し、パルティアとサーサーン朝におけるアッシリア(アスリスタン)はアッシリア人の東方教会やシリアキリスト教、シリア文学の中心地になった(シリアという単語は、アッシリアを指すインド・ヨーロッパ語(ルウィ語)の訛りで、ギリシア語によって採用された)。シリアキリスト教などの文化は今なお、その地域に存在している。
※この「滅亡後のアッシリア」の解説は、「新アッシリア帝国」の解説の一部です。
「滅亡後のアッシリア」を含む「新アッシリア帝国」の記事については、「新アッシリア帝国」の概要を参照ください。
- 滅亡後のアッシリアのページへのリンク