清末の再編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 15:12 UTC 版)
日清戦争で北洋水師が壊滅すると、海軍再建の動きが高まった。この時期になると組織の縦割りによる非効率さを清朝中央も認識し、艦隊再編が始まった。 1896年、いまや急務となった北京・天津防衛のため、各水師の残存大型艦が全て北洋水師に集められた。ドイツ・イギリスへ発注した補充艦艇も1898年には揃い、巡洋艦など機動的な戦力を集中運用できる北洋水師と沿岸警備程度のそれ以外の水師、という役割分担が自然に成立した(ただしその再建された北洋水師も、清朝が西洋列強に宣戦布告した義和団事件(1900)では天津に殺到する八か国艦隊を前に敗走するだけだったが)。この時期になると李鴻章ら各水師を創設した有力者はみな死ぬか引退していたため、相対的に増した政治力を使って1905年、袁世凱ら清朝中央は四水師の統合を決定。1909年、艦艇は中国沿岸の機動的な防衛を行う巡洋艦隊と長江流域の防衛を行う長江艦隊に再編成され、辛亥革命を迎えた。 辛亥革命では清朝海軍はあまり戦闘に巻き込まれなかったため、ほぼ全艦が中華民国の海軍に移籍した。
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