浅草移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:14 UTC 版)
「東本願寺 (台東区)」の記事における「浅草移転」の解説
1657年(明暦3年)、明暦の大火により焼失し、浅草に移転。「浅草本願寺」・「浅草門跡」と称されるようになり、21の支院と35の塔頭を抱え、境内は1万5000坪に及んだ。その伽藍は、江戸後期の天保年間に出版された浮世絵師・葛飾北斎の連作『富嶽三十六景』に「東都浅草本願寺」として描かれている。 1868年(明治元年)には、渋沢成一郎や天野八郎などの旧幕臣ら百数十名により、大政奉還後、上野寛永寺に蟄居していた徳川慶喜の擁護を目的とする「彰義隊」が結成され、その拠点となった。 1875年(明治8年)、明治天皇の臨幸のもと、日本で最初に開かれた「地方官会議(知事会議)」の議場に使用される。 1894年(明治27年)、日清戦争に際し俘虜収容所となり、清国捕虜179名を収容。僧侶・小栗栖香頂は、毎月彼らに中国語で説教した。 1914年(大正3年)、第一次世界大戦に際し再び俘虜収容所となり、ドイツ捕虜計314名を収容。収容所長・西郷寅太郎。翌1915年(大正4年)、収容所は千葉県習志野に移転。 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により本堂等を焼失。 1939年(昭和14年)、焼失した本堂を鉄筋コンクリート造りで再建する。 1945年(昭和20年)、空襲により本堂内部を焼失する。 1953年(昭和28年)、焼失した本堂内部を再建し、荘厳が整う。
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