決闘事件と外務大臣辞任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 01:59 UTC 版)
「ジョージ・カニング」の記事における「決闘事件と外務大臣辞任」の解説
カトリック解放問題など外交関連以外では閣僚との衝突を避けたが、半島戦争を熱烈に支持したため当時の陸軍大臣カースルレー子爵と管轄権をめぐって対立を深めた。最初はシントラ協定(英語版)(フランス軍が無条件でポルトガルから撤退することを約束した協定)への賛否をめぐって論争を繰り広げる(カニングが反対、カースルレーが支持)程度だったが、後に外交問題に発展することになる。 カニングによる半島戦争への支援を受けて、スペイン駐在大使の第2代モーニントン伯爵リチャード・ウェルズリー(後の初代ウェルズリー侯爵)は本国が弟アーサー・ウェルズリー(後の初代ウェリントン公爵)率いるイギリス軍を手厚く支援すると約束したが、ポルトガルに向かうはずだったの増援はカースルレー子爵に命じられホラント王国のフリシンゲンへの遠征に出発してしまう。カニングは不満がたまり、ついに1809年4月にポートランド公爵に対し、カースルレー子爵をほかの官職に転任させなければ自身が辞任すると訴えるに至った。カニングに辞任されると内閣の瓦解は必至であり、かといってカースルレー子爵に戦争に関わらないよう説得することにも大きな勇気が必要であり、すでに70代のポートランド公爵にはそれがなかった。結局ポートランド公爵はカースルレー子爵の閣内における友人である大法官エルドン男爵(英語版)、枢密院議長カムデン伯爵(英語版)、商務庁長官バサースト伯爵に相談したが、5か月間議論を重ねても結果が出なかった。カニングは結果を待っている間にもカースルレー子爵と通常通りに接し、カースルレー子爵も自身の置かれた状況を知らなかったが、カムデン伯爵は後にカースルレー子爵に状況を教えることを「請け合った」ことはないと弁解した(ただし、カムデン伯爵は拒否もしなかった)。カニングもいつになったらカースルレー子爵を解任するかを度々質問したものの、そのたびに「議会の閉会の後」「フリシンゲン遠征隊が出発した後」「フリシンゲン遠征の結果がわかってから」と先延ばしにされたため、ついにしびれを切らして9月7日に辞任した。そして、同9月にカースルレー子爵が閣議の後カムデン伯爵と食事をしたとき、カースルレー子爵がカニングの閣議欠席について話すと、カムデン伯爵はようやく事の始末を教えた。激怒したカースルレー子爵は9月19日にカニングに挑戦状を送り、2人は9月21日に決闘をして軽傷に終わった。 決闘事件によりカースルレー子爵とカニングは辞任を余儀なくされ、ポートランド公爵も直後に首相を辞任した。カニングがポートランド公爵への訴えをカースルレー子爵から隠し通したことでカースルレー子爵の怒りが正当とみなされ、さらに同時期に決闘についての証人だった首相ポートランド公爵が死去したため、この事件でカニングの評判は悪くなり、庶民院でも信用されなかったため、以降12年間高位の官職に就けなかった。
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