留守氏
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留守氏(るすし)は、藤原北家道兼流と称する武家・士族だった日本の氏族[1]。伊沢家景が奥州征伐後の1190年に源頼朝から陸奥国留守職に任じられ、子孫がその地位を世襲したことで留守氏を称す。南北朝・室町期には岩切城を本拠に国人領主化したが、伊達氏からの養子が繰り返されたことでその影響下に入る[2]。江戸期には仙台藩主伊達家の一門家臣として伊達に改称して水沢を領し、水沢伊達家と呼ばれた。維新後、留守に復姓して士族[3]。
- ^ a b 『余目氏家譜』
- ^ a b c d e "留守氏". 百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2022年11月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g 松田敬之 2015, p. 785.
- ^ 佐藤秀成「奥州惣奉行と陸奥国統治」『鎌倉幕府文書行政論』吉川弘文館、2019年2月 P196-198・202-204・210-211.
- ^ 斎藤子爵記念会 1941, pp. 85–86
- ^ “「第4の偉人」になれない小沢元代表”. 日本経済新聞. (2011年5月26日) 2024年5月23日閲覧。
- ^ "平岸村". 日本歴史地名大系. コトバンクより2024年5月24日閲覧。
水沢伊達家(江戸時代)
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文禄2年(1593年)、磐井郡二桜城主となっていた政景は、伊達姓を与えられ一門の家格に列した。この後、政景の家系は一関城主・金ケ崎城主を経て、寛永6年(1629年)政景の子・宗利が胆沢郡水沢城主となり、以降幕末まで同地を治めたことから、同氏は水沢伊達家と呼ばれる。このため水沢伊達家の歴代当主を、伊達姓に復帰した政景からではなく宗利から数える場合がある。 政景の直系は4代・宗景までで絶え、その養子として仙台藩4代藩主・綱村の弟・村任が養子に入る。元禄8年(1695年)、村任が新設された中津山藩の藩主に就任すると、水沢領を涌谷伊達家から迎えた養子・村景に譲り水沢を離れ、これ以後は政景の来孫である村景の血統が当主を継ぐ。 水沢伊達家の禄高は1,633貫588文、水沢伊達家の家臣団(陪々臣)は808家であった。 幕末の13代・邦寧は慶応4年(1868年)の戊辰戦争敗戦に伴い、水沢伊達家領が仙台藩から没収されたため失領する。翌明治2年(1869年)に邦寧は旧姓に復して留守氏を名乗る。同明治2年、居城の水沢城が胆沢県庁として使用されることになったため新政府に接収されたうえ、水沢伊達家家中は陪臣であるからとして帰農を命じられ、仙台藩の士族籍を得られなかった。このため、士分を保つために家中一同そろって北海道開拓に参加すべきとの意見が出されたが、邦寧は病身のため極寒の気候に耐えられないであろうとの判断から仙台に残留し、吉田元俶・坂本平九郎が家中200名を率いて石狩国札幌郡に移住した。この時、水沢伊達氏家中によって拓かれたのが平岸村(現・札幌市豊平区平岸)である。
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