構想と強制的徴集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 08:32 UTC 版)
「開拓使仮学校附属北海道土人教育所」の記事における「構想と強制的徴集」の解説
本構想は、いまだ通辞(アイヌ語通訳)、および少数の和人風俗、日本語に通じた役アイヌを介することを必要とし、アイヌの教化・同化の必要が対アイヌ統治の政策上求められていたことを背景として、黒田清隆開拓次官が開拓使仮学校開校に触発されて、アイヌ民族の子弟に日本文化・日本語・臣民意識などの皇民化教育を行い、農業技術を身に付けさせ、かれらを「教化・同化」の模範として活用しようと試みたものであった。 当初はアイヌ民族100名を東京に連れていくという構想であったが、最終的に38名(13歳から38歳の、男26名・女9名の35人、1874年に余市より1名、択捉から2名)しか徴集できなかった。札幌周辺の、和人側との折衝にあたった役アイヌ階層の親族・関係者が主体となった。働き手を連れ去ったため、残された家族を困窮させた。徴集にあたった札幌開拓使丁主任岩村通俊の手紙・回想、逃亡・復学拒否の状況などから、相当な抵抗があったことが研究者によって指摘され、「強制就学」、「連行」であったと考えられている。 東京に彼らが到着してから、年少のものは読み書き算盤・裁縫を学び、年長のものは第三官園で農業技術を学ぶこととなった。このために東京到着後に拙速に付設されたのが北海道土人教育所である。
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