業績回復期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:28 UTC 版)
業績は1934年に入ると持ち直し、1935年度には年間総収入が6000万円台に到達した。外債問題期には9パーセント前後に低迷していた対平均払込金利益率についても回復し、1934年以降は14パーセント前後で推移している。業績回復により配当率は1934年上期に年率5パーセントから6パーセントへ、次いで同年下期に7パーセントへ引き上げられ、翌1935年下期からは年率8パーセントとなった。 1934年11月、7000万円の増資を決定し、資本金を1億3000万円から2億円へと引き上げた。増資新株の払込金徴収は1935年4月から1937年(昭和12年)7月にかけて4度に分割して行われている。この時期、8パーセントの配当率に対し社債は年利4パーセント台と低コストで発行可能であったが、起債は1937年3月まで行われていない。1920年代の社債中心の資金調達とは対照的であるが、これは松永が金融面での混乱の反省から自己資本比率の向上を志向するようになったためという。また固定資産の償却を充実し業績・内容ともに安定したため若干の負担増は問題とならない状況となったことも理由であった。 その後資本金は、1937年の合同電気・中部電力の合併に伴い3300万円ずつ増加し2億6600万円となった。この間の1937年4月、重役会で半額増資(1億1650万円の増資)の方針が決められたが、電力国家管理政策の進展による株価急落のため実現していない。2社の合併で営業規模はより拡大し、1937年下期の総収入は半期だけで4562万円となり、翌1938年度の年間総収入は9723万円に達した。 1939年以降の電力国家管理期も下表の通り収入は拡大傾向にあり、1941年度の年間総収入は1億2388万円となった。一方で純利益額は伸びず1938年上期が最高値であった。利益率の低迷は、物価が上昇する中で国策により電気料金が低位で固定化されたことによる。この間の1939年6月、傘下の東邦証券保有を合併した際、自社株を消却したため資本金は500万円減少し2億6100万円(全額払込済み)となった。以後、解散までこの資本金額が維持された。
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