棚田の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 01:53 UTC 版)
棚田の死後、溝辺・山下らによって運動は続けられ、平城宮跡地は国に献上され、1922年に内務省によって第二次大極殿・朝堂院が史跡に指定された。この後、平城宮の保存運動は、1962年に起こる近畿日本鉄道の車庫建設への反発運動まで下火となる。 1936年11月10日、文部省で催された史跡名勝天然物記念保存協会25周年記念式典の席上において、棚田・溝辺の両名は「当局相手の抗争を繰り広げた保存事業功労者」として当時の文部大臣平生釟三郎に表彰された。 2001年、大内裏復活計画の見積書や賛同署名、自決に使用した短刀などの棚田の遺品が遺族から奈良文化財研究所に寄贈された。また、棚田の遺族は例年行われる興福寺の僧侶などが天皇陵を巡る行事に参列している。 朱雀門近くには棚田の銅像が、旧跡を見守るようにして立っている。
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