天皇陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/15 15:54 UTC 版)
- ^ 崇神天皇の「山邊道勾岡上陵」は『古事記』による陵墓名。『日本書紀』および『延喜式』では景行天皇陵と同じ「山邊道上陵」。
- ^ かつては雄略天皇陵を河内大塚山古墳(大阪府羽曳野市・松原市)に比定する説も有力視されたが、現在では後期古墳説が定着している(川内眷三 「河内大塚山古墳の研究動向と周辺域古墳群の復原」 (PDF) 『四天王寺大学紀要 第57号』 2014年、pp. 32-41)。
- ^ 宮内庁御陵印の印面は「崇峻天皇倉梯岡上陵」。昭和31年版宮内庁『陵墓要覧』まで「倉梯岡上陵」とあったが改号。
- ^ 「弘文天皇」は1870年(明治3年)に贈られた諡号であり、それまで歴代天皇に列せられていなかったため、『延喜式』には記載なし。
- ^ 淳仁天皇について、『延喜式』では「廃帝」と記載。
- ^ 嵯峨天皇は、遺詔により山陵を興さず薄葬された。現在の陵は幕末に治定・修陵されたもの。
- ^ 淳和天皇は、遺詔により山陵を興さず散骨された。現在の陵は幕末に修陵されたもの。
注釈
- ^ 1947年(昭和22年)5月2日に廃止された皇室陵墓令(大正15年皇室令第12号)で第1條「天皇太皇太后皇太后皇后ノ墳塋ヲ陵トス」、第2條「皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ノ墳塋ヲ墓トス」と定められていた。墳塋(ふんえい)は墓のこと。
- ^ 日本武尊の墓として治定されているのは三重県亀山市所在の「能褒野墓」であるが、それとは別に白鳥伝承に基づく「白鳥陵」が、奈良県御所市と大阪府羽曳野市の二箇所に治定されている。
- ^ 外池昇は形骸化したとは言え荷前が14世紀まで続いていることや、『江家次第』や一部の日記(『小右記』治安3年12月9日条・『内弁侍日記』建長2年12月16日条)が荷前が厳冬の旧暦12月に行われたことによる困難さを示す記述の存在を挙げて、有職故実書などが強調する「穢れ」の問題だけを取り上げることの問題点を指摘している。(外池昇「陵墓観の変遷」(『成城文芸』第115号(成城大学文芸学部、1986年(昭和61年))/改題「陵墓の〈浄〉と〈穢〉」(外池『幕末・明治期の陵墓』(吉川弘文館、1997年(平成9年)))
出典
- ^ 宮内庁 陵墓
- ^ 大和発掘物語:五社神古墳/上 研究者が“歴史的な一歩 /奈良、毎日新聞、2013年3月13日
- ^ 慶應義塾大学講師 竹田 恒泰 第9回 陵墓の調査は慎重に、北海道神宮、2018年10月15日
- ^ 「仁徳天皇陵」初の共同発掘 宮内庁と地元・堺市、産経新聞、2018年10月15日
- ^ 山田邦和「平安時代前期の陵墓選地」 所収:角田文衞監修・古代學協會編『仁明朝史の研究』(思文閣出版、2011年(平成23年))
- ^ 谷川愛「平安時代における天皇・太上天皇の喪葬儀礼」初出:『国史学』169、1999年/所収:倉本一宏 編『王朝時代の実像1 王朝再読』臨川書店、2021年 倉本編、P25-33.
- ^ NHK NEWS WEB 2012年(平成24年)4月26日 Archived 2012年4月29日, at the Wayback Machine.
- ^ YOMIURI ONLINE(読売新聞)2013年(平成25年)11月14日
- ^ a b c 『天皇と葬儀: 日本人の死生観 』(新潮選書) 2013/12/20 井上 亮 (著)
- ^ 外池昇「村落と陵墓-明治政府の陵墓政策-」『幕末・明治期の陵墓』(吉川弘文館、1997年(平成9年)) ISBN 978-4-642-03672-6 (原論文・1989年 - 1995年(平成7年))
- ^ 参議院会議録情報 第159回国会 内閣委員会 第4号、2004年(平成16年)3月24日
- ^ 陵墓見直し「今の時点で考えず」 宮内庁次長、47NEWS、2010年12月13日
- ^ 上野竹次郎『山陵』1925年(大正14年)山陵崇敬会
- ^ 外池昇『天皇陵論-聖域か文化財か-』(2007年(平成19年)、新人物往来社)などによる
- ^ 衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する質問に対する答弁書、内閣衆質176第1号、2010年10月12日
- ^ 井沢元彦『逆説の日本史1古代黎明編』(小学館文庫、1998年)地と陵川
- ^ 衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する再質問に対する答弁書、内閣衆質176第177号、2010年11月26日
- ^ 衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する第三回質問に対する答弁書、内閣衆質176第217号、2010年12月10日
- ^ 衆議院議員吉井英勝君提出陵墓に治定されている古墳の祭祀に関する質問に対する答弁書、内閣衆質175第38号、2010年8月20日
- ^ 『発見・検証 日本の古代II 騎馬文化と古代のイノベーション』 KADOKAWA、2016年、pp. 335-336。
- ^ a b c d e f g h 一瀬和夫「10のクエスチョンでイチからわかる古墳の基礎知識」『歴史読本 2015年1月号』KADOKAWA、2014年、p. 46。
- ^ 外池昇 『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』 吉川弘文館、2005年、pp. 49-52。
天皇陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:28 UTC 版)
詳細は「天皇陵」を参照 (外部リンク)歴代天皇陵一覧、宮内庁皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)第27条により、天皇・皇后・皇太后・太皇太后を葬る所を陵(みささぎ/りょう)、その他の皇太子や親王などの皇族を葬る所を墓(はか/ぼ)と定められている。このほかにニニギノミコトなど三神の陵として神代三陵が宮内庁によって治定されている。天皇陵は時代によって変遷しており、天皇がまだ大王と呼ばれていた時代には巨大な前方後円墳が造営され、その後方墳、円墳、八角墳と変遷した。院政期の白河天皇、鳥羽天皇、近衛天皇にいたって仏式の堂に納骨する方式が現れ、江戸時代の後水尾天皇以降は代々京都泉涌寺に石造塔形式の陵墓が建立された。幕末にいたって尊皇思想が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、孝明天皇陵は大規模な墳丘を持つ形式で築造された。明治天皇以降も大規模な上円下方墳が造営される形式が続いたが、明仁が自らの葬法について火葬を希望すると明らかにした際に、陵の規模を縮小する方針が発表された。
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天皇陵
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清閑寺の旧境内である清水山南稜・清閑寺山の中腹に六條天皇清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)、高倉天皇後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)がある。両陵の兆域面積は9889.44m²、周囲215間(約390.9m)、手前が高倉天皇後清閑寺陵、後方上段が六條天皇清閑寺陵。両陵共に土塀に囲われて正面に檜皮葺平唐門を有しており、陵内を望む事はできない。兆域は南南西方向に開けた長方形状の谷間に位置するので、拝所も含めて両陵とも南南西を正面としている。また、兆域全体は金網状のフェンスで囲われている。
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