棚田の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/07 07:05 UTC 版)
太田川上流域に位置するこの地の歴史は、戦国時代以前の資料がほとんどないためこの棚田形成について推定による部分が多い。 『芸藩通志』に断片的に書かれていることによると、平安時代末期、山県郡の筒賀は殿賀・戸河内・安野・加計・都谷とともに「大田郷(大田荘)」と呼ばれた厳島神社荘園で、地頭として栗栖氏が支配していた。このことから、この地で開墾が始まったのは平安時代末期から鎌倉時代にかけてと推定されている。そして井仁に集落が形成されたのは室町時代前期と推定されている。 一般に石垣の歴史は戦国時代以降の築城の歴史と重なるため、この棚田の石積の最古のものは戦国時代ごろに形成されたものと推定されている。特に戦国時代末期から安土桃山時代にかけてこの地を支配した吉川氏は文禄・慶長の役において築城人足として支配下の住民を多く動員したことから、そこで習得した石積技術を持ち帰った人達によってこの棚田が形成されたものと考えられている。現在井仁の棚田を紹介している資料では約500年前に作られたとしている。 広島藩検地帳である『地詰帳』によると、1638年(寛永15年)時点での井仁の耕地は現在のものとほぼ同じ大きさであることから、この時期にはすでに現在の棚田の姿が完成していたことになる。
※この「棚田の形成」の解説は、「井仁の棚田」の解説の一部です。
「棚田の形成」を含む「井仁の棚田」の記事については、「井仁の棚田」の概要を参照ください。
- 棚田の形成のページへのリンク