やぎゅう‐しんかげりゅう〔やぎふシンかげリウ〕【▽柳▽生新陰流】
読み方:やぎゅうしんかげりゅう
⇒柳生流
柳生新陰流
柳生新陰流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 02:49 UTC 版)
柳生の地は伊賀・甲賀の隣国。戦国時代の柳生石舟斎から、尾張柳生と江戸柳生に分かれる。江戸の柳生宗矩は徳川将軍家剣術指南役。
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柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:33 UTC 版)
「浪人若さま新見左近」の記事における「柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)」の解説
上泉信綱を祖とする剣の流派。先に動こうとする相手の剣気を見極めて隙を突き、倒す事を得意とする。徳川光友、澤井右京とその配下が操る。
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柳生新陰流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 16:55 UTC 版)
柳生宗厳が伝えた新陰流は一般には柳生新陰流と呼ばれることが多い。しかし、これはあくまでも俗称で、正式な流儀名は新陰流である。上泉信綱からの流儀名「新陰流兵法」をそのまま伝えている。 詳細は「柳生新陰流」を参照 のちに徳川将軍家御流儀となった江戸柳生では、柳生宗矩が関ヶ原合戦前に土佐長宗我部氏監視のために阿波(徳島)に派遣した木村郷右衛門尉義邦によって伝えられたものが現存しており「柳生神影流」と称し、現在でも明治38年に設立された久武館道場で剣術、棒術や武道神事と共に当時のまま伝承されている。またその動きは空手四大流派である「和道流空手道」に取り入れられている。 詳細は「柳生神影流」を参照
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柳生新陰流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 16:53 UTC 版)
柳生石舟斎(やぎゅう せきしゅうさい) 柳生新陰流の開祖。 本名は柳生 但馬守 宗厳(やぎゅう たじまのかみ むねよし)。 通称「剣聖」。天下無双とも称えられる今も技の探求を続けている。病気がちな自身の余命を考え、その技を兵庫助に残すことに尽くしている。周りからの偉人的評価にそぐう厳格な人物だが、無邪気な部分や茶目っ気があり、孫にはつい甘い顔を見せる。村を出奔したおつうを喜んで迎え入れた。負けず嫌いで、たとえ碁の勝負でも負けを悟ると台をひっくり返してとぼけるなど、ときに子供のように振舞う。 若いころ伊勢守やその甥の疋田豊五郎と立ち会い完敗。伊勢守に弟子入りし、「無刀」の業を引き継いだ。 武蔵の心の師の一人。おつうの笛の音を聞きながら静かに息を引き取った。 柳生兵庫助(やぎゅう ひょうごのすけ) 新陰流の後継者。 石舟斎に特に溺愛されている孫。幼少のころより剣を振る姿は石舟斎の生き写しと言われる。諸大名から仕官に誘われるも断り、武者修行の旅を続ける。武蔵のことを自分に似ていると感じ、石舟斎も寝ぼけて武蔵と兵庫助を間違えたことがある。石舟斎いわく、「一族の最高傑作」。 武蔵と会ったのは二度だけながら、武蔵を強者と見抜いている。作中でも最強と目されるうちの一人。 柳生宗矩(やぎゅう むねのり) 石舟斎が五男。 三玄院で沢庵と親しくなり、それが沢庵と石舟斎を繋ぐきっかけにもなった。将軍家剣術指南役。
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