柔道時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:23 UTC 版)
受験に失敗し、一年高校浪人して久留米市立南筑高校に入学。1960年、柔道三段を取得。高校卒業後、明治大学に進学。柔道部で神永昭夫の指導を受ける。1963年10月、バーデン=バーデンでのIOC総会で柔道の1968年メキシコシティーオリンピックからの除外が決定。国際柔道連盟(IJF)はIOCに再考を促す。坂口はその長身を生かし、1964年東京オリンピック前には「仮想ヘーシンク」として、神永の稽古相手を務めた。 明治大学卒業後、旭化成工業(のちの旭化成)に入社し、1965年、全日本柔道選手権で優勝。その年のリオデジャネイロでの1965年世界柔道選手権大会に日本代表として出場した。東京オリンピックで失った日本柔道の威信回復のため、アントン・ヘーシンクに対しパワーや体格でも引けをとらない日本の大型強豪選手のひとりとして、松永満雄、松阪猛らとともに雪辱を期待されたが、終始ヘーシンクをパワーで圧倒した松永(銀メダル)とともに互角に戦いながらも今一歩のところまで追いつめながらの優勢負け(銅メダル)となり雪辱はかなわなかった。なお、この日本人選手との大苦戦を経ての優勝以降、ヘーシンクは世界タイトルのかかった国際試合に出てくることはなかった。10月、マドリードでのIOC総会で1972年夏季オリンピック(のちのミュンヘンオリンピック)からの柔道の再採用が決定するが、1968年メキシコシティーオリンピックでの柔道の除外が再決定。それを知り、ショックを受ける。 その翌年1966年、『柔道大事典』によると、柔道六段を取得。一方で1966年より後の他の資料では柔道五段としているものもある 。1966年全日本柔道選手権で優勝を逃したこともあり、その後に日本プロレス関係者との会見でプロレス入りを誘われたため、プロレス入りを決意する。
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