東山海戦及び烏坵海戦での敗北と大陸反攻の中止
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「国光計画」の記事における「東山海戦及び烏坵海戦での敗北と大陸反攻の中止」の解説
1965年8月6日、福建省東山島沖で海上突撃部隊の支援を行っていた国民党海軍の『剣門』(旧米海軍オーク級掃海艇)と『章江』(旧米海軍PC-461級駆潜艇)が人民解放軍の魚雷艇の待ち伏せを受け、相次いで撃沈されるという事が起きた。これが東山海戦(八・六海戦)である。これにより劉広凱中華民国海軍総司令の引責辞退と国防部の人事一新に発展した。蔣介石もこの海戦以降作戦会議に参加する回数が激減し、国光作業室も作戦計画室に改称し、小規模な襲撃作戦や特殊作戦の指導組織になった。11月14日には烏坵沖でも海戦があり、国民党海軍の敷設艇が人民解放軍の魚雷艇により撃沈された(烏坵海戦(中国語版))。 この二つの敗北により国民党政権は大陸反攻を事実上放棄した。 その後も国民党政権はアメリカの同盟国としてベトナム戦争に介入するという名目で北ベトナム支援の拠点となっていた広東や広西への上陸作戦による大陸反攻を立案し(王師計画(中国語版))、1966年9月から1967年3月にかけてアメリカのジョンソン政権に対して大陸反攻の実施と米軍による海空支援を打診したがアメリカにしてみればベトナム戦争が対中戦争に拡大することであり、にべもなく断られた。国民党政権がアメリカに大陸反攻を提案したのはこれが最後となった。
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