東ローマ以降のストラディオット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:47 UTC 版)
「ストラディオット」の記事における「東ローマ以降のストラディオット」の解説
少なくとも建前上は遠近両用であった前述したストラティオタイ(主にカタフラクト)に肖って名づけられたが、主にイスラム勢力(特にオスマン帝国)の軽装騎兵に対抗するために彼らを参考に組織された軽装騎兵でギリシャ人、クロアチア人、アルバニア人、ダルマティア人などイスラム勢力に比較的に近い位置に存在し、東ローマ帝国の旧領だったバルカン半島の傭兵からなり、その多くが東ローマ帝国の滅亡によって失業したストラティオタイだった。 合成弓、彎刀、メイス、石突も穂先になった槍(アセガイ)などを装備していたが、戦法としては作戦よりも自分の命が優先という傭兵で編成された部隊であったことも手伝い騎槍による突撃といった白兵戦よりも投げ槍による間接攻撃が主だった。また軽装騎兵ではあるがイタリア製の甲冑を着ることもあった。 こうしたバルカン半島の傭兵で組織された軽装騎兵(ハンガリーのハサー、ワラキアのカラーシ)はポーランドの軽装騎兵(ウィングハサー、ウーラン)と並んで後のオスマン帝国の軽装騎兵や発展する火器に対する衝撃力としては有効であり、軽装騎兵の概念が芽生え始めた当時のヨーロッパ諸国において重宝された。
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