李承晩時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:32 UTC 版)
1949年1月17日、大韓民国(韓国)初代大統領の李承晩は「対馬は韓国領」として日本に「返還」を要求した。また、第二次世界大戦後に日本を占領した連合国軍総司令部 (GHQ) に対し、韓国の李承晩政権は竹島だけでなく対馬についても「歴史的にこの島は韓国の領土であり、日本によって強制的、不法に占領された」と述べ、日本からの割譲を要求したが、GHQからは「根拠がない」として拒否された。
※この「李承晩時代」の解説は、「対馬」の解説の一部です。
「李承晩時代」を含む「対馬」の記事については、「対馬」の概要を参照ください。
李承晩時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:14 UTC 版)
詳細は「第一共和国 (大韓民国)」を参照 1948年に韓国の初代大統領に就任した李承晩は、日本から戦争賠償金を獲得するために「対日戦勝国(連合国の一員)」としての地位を認定するよう国際社会に要求したが、連合国からは最終的に認定を拒否され、1951年の日本国との平和条約を締結することができなかった。そのため、李承晩は李承晩ラインの設置(1952年)や竹島の占拠(1953年)によって武力で日本の主権を奪う政策に出た。一方、国内では朝鮮戦争という危機的状況下でも権力を維持し、戦争中に釜山へ移転していた政府を休戦後に再びソウルへ戻すことができた。朝鮮戦争後、李承晩は政敵の排除(進歩党事件など)や反政府運動に対する厳しい弾圧とともに、権威主義的体制を固めていった。しかし、経済政策の失敗で韓国は最貧国の一員に留まっており、権威主義的な施策もあって人気は低迷していった。そのため、不正な憲法改正や選挙など法を捻じ曲げての権力の維持を図ろうとしたものの、1960年4月19日の学生デモを契機として政権は崩壊し(四月革命)、李承晩はハワイへ亡命した。
※この「李承晩時代」の解説は、「大韓民国」の解説の一部です。
「李承晩時代」を含む「大韓民国」の記事については、「大韓民国」の概要を参照ください。
- 李承晩時代のページへのリンク