朝鮮語による第2放送
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「朝鮮放送協会」の記事における「朝鮮語による第2放送」の解説
社団法人京城放送局では経営不振を打開するために、1931年2月、朝鮮語専用の第2放送の実施計画に着手し、途中、朝鮮総督府と社団法人日本放送協会の経済的・技術的支援を受け、1932年4月には経営母体も「社団法人朝鮮放送協会」に改組(京城放送局は京城中央放送局に改称)しながら、第1放送(日本語)の増力と第2放送の新設を果たした。第2放送の開始は1933年4月、日本語と朝鮮語を分離した放送は日本人・朝鮮人の双方に好評で、同年末の聴取契約数は3万2千件に達したが、主に日本人世帯の聴取契約数が増加した。当時、ラジオ放送を聴取するためには月額1円と言うやや高額な聴取料が必要(1938年4月、75銭に引き下げ)であり、貧困層の多い朝鮮人世帯にはなかなか普及しなかった。加えて、あまり送信出力が大きくない京城中央放送局1局からの放送を朝鮮全土に到達させるのは、地形的にも困難であった(1937年4月、第2放送が出力50kWに増力し全土で聴取可能になる)。しかし、ラジオは個人の家庭以外にも、食堂、喫茶店、農村の集会所等、人がよく集まる所に設置されており、聴取者数は決して少なくなかった。1920年代の朝鮮語新聞とともにこのラジオ放送が近代朝鮮語の確立に与えた影響は小さくないと言われている。ところが、朝鮮語による放送は朝鮮での日本語の普及、皇民化を妨げるという主張が後を絶たず、朝鮮語放送廃止論がしばしば台頭した。日中戦争が長期化し、更に太平洋戦争が勃発すると、内地(日本本土)同様に朝鮮の放送も戦時色が強くなり、第2放送で人気のあった歌謡番組も戦意高揚歌ばかりとなった。1942年4月、放送電波管制のため京城中央放送局からの第2放送は一時休止されたが、地方局にも第2放送設備を新設して、1943年11月に再開された。
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