明治期の博徒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:16 UTC 版)
明治初期には西洋的な刑法・治罪法の制定に伴い博徒取締が緩和され、全国的に博徒が横行する。1882年(明治15年)に政府から派遣された元老院議官・安場保和の「地方巡察復命書」では博徒の盛んな地域として山梨県のほか群馬県、長野県を挙げており、翌1883年(明治16年)の巡察史で元老院議官の渡辺清元も山梨県における博徒の横行を答申している。 政府ではこうした事態に対して1884年(明治17年)1月に「賭博犯処分規則」を布告して博徒取締を強化し、山梨県でも県令の藤村紫朗が博徒対策を強化し、1877年(明治10年)には藤村は内務卿大久保利通に「賭博取締ノ儀」を建議している。藤村は1884年(明治17年)に博徒大刈込(賭博半処分規則)により博徒取締の強化を行い、山梨県における博徒の活動は沈静化した。 全国的な博徒取締の強化により、博徒は自由民権運動や困民党に接近し、各地で大衆蜂起や政府転覆事件を引き起こしている。山梨県では1884年(明治17年)の秩父事件において県内から数名の参加者を出したが、県内における蜂起も起こらなかった。江戸時代以来の甲州博徒のうち、豊富村の早川助重は民権運動にも参加し、1906年(明治39年)には土地均分論を唱える土地復権同士会が同士募集のため甲府市を訪れ、同会の『巡歴日誌』同年5月18日条では早川について触れている。
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