旧セネターズとは? わかりやすく解説

旧セネターズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 03:34 UTC 版)

オタワ・セネターズ」の記事における「旧セネターズ」の解説

ホッケー歴史研究する者の多くは、1901年から1934年までオタワフランチャイズ置いたオタワ・セネターズホッケー黎明期における最も偉大なチームとして認識している。 チームは、CAHL (Canadian Amateur Hockey League) 、NHA (National Hockey Association) 、NHL (National Hockey League) に参戦し当時はまだチャレンジ・トロフィであったスタンレー・カップ合計9度優勝遂げたチームは、複数ニックネームがあったが(そのうちでも最も有名なのが、ホッケー創成期伝説となっているオタワ・「シルバーセブン」(Ottawa Silver Seven) )、チーム史通じて最も一般的なのは、セネターズである。 チーム在籍選手を語ることはそのままホッケー伝説を語ることとなり、Frank McGee 、キング・クランシー (King Clancy) 、 Harry Westwick 、 Bruce Ridpath 、 Clint BenedictAlex ConnellFrank Nighbor 、 Cy Denneny をはじめ多数選手がいた。 1930年代在籍した選手は、あらかたホッケーの殿堂入り果しており、チーム最後にスタンレー・カップ決勝進出をした1926-1927シーズンまでに、組織化されホッケー界のあらゆるチームの中で最も多くカップ獲得勝利数、リーグチャンピオンとなり、また最多殿堂入り選手輩出した。 旧セネターズは、 NHA 、 NHL 双方リーグ創設メンバーであり、NHL加入してからは西部リーグチーム戦って4度スタンレー・カップ獲得した。なお、1927年スタンレー・カップ決勝、対ボストン・ブルーインズ以降は、NHLカップ優勝チームのみに授与することとなった。 「小規模市場フランチャイズ ("small-market franchise") 」という言葉は、決し新し言葉なのではなくNHL における最少市場として、1927年頃からオタワリーグからの財政的支援求めていた。チーム徐々にスター選手を他チーム譲渡しており、世界大恐慌に伴うストライキの折には、スーパースターディフェンスのキング・クランシーを1930年当時破格35,000ドル売り出した。それでも十分とはいえず、1932-1933シーズンには、フランチャイズでの業務活動一時休止したその後シーズンセネターズ活動再開するが、有力選手に事欠いたために、オタワにおける残り2シーズン惨めな成績終えることとなった。こうして、かって一大勢力誇ったフランチャイズは、セントルイス移転することとなり、旧セネターズは最後1934-1935シーズン をセントルイス・イーグルス (St. Louis Eagles) の名称で戦ったのである。 この旧セネターズは、新セネターズとは一応関係のないチームとして位置づけられる。ただし、NHL発行したフランチャイズの証明書には、フランチャイズの「再授与 (re-instatement) 」であると宣言されている。

※この「旧セネターズ」の解説は、「オタワ・セネターズ」の解説の一部です。
「旧セネターズ」を含む「オタワ・セネターズ」の記事については、「オタワ・セネターズ」の概要を参照ください。

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