旧セネターズ
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ホッケーの歴史を研究する者の多くは、1901年から1934年までオタワにフランチャイズを置いた旧オタワ・セネターズをホッケー黎明期における最も偉大なチームとして認識している。 チームは、CAHL (Canadian Amateur Hockey League) 、NHA (National Hockey Association) 、NHL (National Hockey League) に参戦し、当時はまだチャレンジ・トロフィであったスタンレー・カップで合計9度の優勝を遂げた。 チームは、複数のニックネームがあったが(そのうちでも最も有名なのが、ホッケー創成期の伝説となっているオタワ・「シルバーセブン」(Ottawa Silver Seven) )、チーム史を通じて最も一般的なのは、セネターズである。 チームの在籍選手を語ることはそのままホッケーの伝説を語ることとなり、Frank McGee 、キング・クランシー (King Clancy) 、 Harry Westwick 、 Bruce Ridpath 、 Clint Benedict 、 Alex Connell 、 Frank Nighbor 、 Cy Denneny をはじめ多数の選手がいた。 1930年代に在籍した選手は、あらかたホッケーの殿堂入りを果しており、チームが最後にスタンレー・カップ決勝進出をした1926-1927シーズンまでに、組織化されたホッケー界のあらゆるチームの中で最も多くのカップ獲得、勝利数、リーグチャンピオンとなり、また最多の殿堂入り選手を輩出した。 旧セネターズは、 NHA 、 NHL 双方のリーグの創設メンバーであり、NHL に加入してからは西部リーグのチームと戦って4度のスタンレー・カップを獲得した。なお、1927年のスタンレー・カップ決勝、対ボストン・ブルーインズ戦以降は、NHL はカップを優勝チームのみに授与することとなった。 「小規模市場のフランチャイズ ("small-market franchise") 」という言葉は、決して新しい言葉なのではなく、NHL における最少の市場として、1927年頃からオタワはリーグからの財政的支援を求めていた。チームは徐々にスター選手を他チームに譲渡しており、世界大恐慌に伴うストライキの折には、スーパースターでディフェンスのキング・クランシーを1930年当時破格の35,000ドルで売りに出した。それでも十分とはいえず、1932-1933シーズンには、フランチャイズでの業務活動を一時休止した。 その後のシーズン、セネターズは活動を再開するが、有力選手に事欠いたために、オタワにおける残り2シーズンを惨めな成績で終えることとなった。こうして、かって一大勢力を誇ったフランチャイズは、セントルイスに移転することとなり、旧セネターズは最後の1934-1935シーズン をセントルイス・イーグルス (St. Louis Eagles) の名称で戦ったのである。 この旧セネターズは、新セネターズとは一応関係のないチームとして位置づけられる。ただし、NHL の発行した新フランチャイズの証明書には、フランチャイズ権の「再授与 (re-instatement) 」であると宣言されている。
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