日本艦隊のトラック撤収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 06:15 UTC 版)
「パラオ大空襲」の記事における「日本艦隊のトラック撤収」の解説
1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲により、日本艦隊は、それまでの前進根拠地だったトラック泊地の使用継続が困難となった。そこで、3月8日に発令された新たな作戦計画の新Z号作戦では、パラオ泊地(パラオ本島=バベルダオブ島・コロール島)がトラック泊地に代わる前進根拠地となった。連合艦隊司令長官の古賀峯一大将は、連合艦隊旗艦である戦艦武蔵に座乗して自らパラオに進出し、第二艦隊主力(軍隊区分では遊撃部隊と呼称)の重巡5隻(愛宕、高雄、鳥海、妙高、羽黒)・駆逐艦3隻を率いて作戦に備えた。空母部隊である第三艦隊は日本本土やリンガ泊地で再建中だった。艦隊の後方支援のため工作艦明石や給油艦などの支援艦船もパラオに集まった。また、パラオはニューギニアやウォレアイ環礁(当時の日本軍呼称はメレヨン島)方面への補給の中継地でもあったことから、多数の陸海軍徴用輸送船も寄港していた。なお、パラオ近くの有望泊地としてウルシー環礁もあったが、日本海軍は観測所を置いた程度で本格利用はしていなかった。 パラオ方面にいる日本の基地航空隊は、編成間もない第十四航空艦隊隷下の部隊が中心で、ソロモン諸島の戦いで消耗して再建中の第6空襲部隊(第26航空戦隊)に属する戦闘機31機・陸攻20機などがペリリュー島に駐留していたほか、第2空襲部隊(第22航空戦隊基幹)のうち戦闘機30機・陸攻4機がウォレアイ環礁およびグアムにいた。また第一航空艦隊の戦闘機約100機・陸攻34機・艦爆約12機などが、マリアナ諸島各地に展開していた。本空襲に対応するため横須賀海軍航空隊の陸攻が南鳥島などからも飛来しており、以上を合計するとパラオ大空襲時の日本側航空兵力は海軍機約270機であった。
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