日本窒素肥料の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 06:51 UTC 版)
「日窒コンツェルン」の記事における「日本窒素肥料の発展」の解説
当初の石灰窒素事業は必ずしも順調ではなく、藤山が世界で初めて連続的生産方法を開発したものの、製品の窒素含有量が少ないなど技術的課題があった。工場で製造を指導していたのは藤山であったが、創業間もない企業として製品化を急いでいたこともあり、野口は藤山を押しのけ悪戦苦闘の末に最初の製品を作り上げた。しかしこのことで藤山は日本窒素肥料を去り、三井の資本で電気化学工業を設立し強力な競争相手となった。 1914年の第一次世界大戦の影響で、それまで日本市場の過半を占めていたイギリスからの硫安の輸入が途絶し、硫安の市場価格は3倍近くに急騰し、高値は1918年まで続いた。日本窒素肥料は国内原料と自家発電を利用していたため生産費の上昇がなく、大戦中に大きな利益を上げた。 得られた資金を原資に事業拡大を考えていた野口は、戦争が終結したヨーロッパに1921年赴き、ドイツのグランツシュトフ社のビスコース人造絹糸技術、イタリアのルイジ・カザレー(イタリア語版)発明のカザレー式アンモニア合成法の技術導入を決めた。この二つの技術を実現するために、ベンベルグ絹糸製造の旭絹織物、アンモニア合成の延岡工場が建設された(いずれも現在の旭化成の前身)。 人絹糸を処理するときに得られるニトロセルロースは綿火薬の原料であり、平和産業から戦時産業へ転換可能な製品である。またカザレー式アンモニア合成法の導入により、森矗昶の昭和肥料(現・昭和電工)と激しく競争しながら日窒は国内総生産高の多くを占めるにいたった。
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