日向赤木氏とは? わかりやすく解説

日向赤木氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 05:25 UTC 版)

赤木氏」の記事における「日向赤木氏」の解説

一方日向国(現・宮崎県)の赤木氏は、弓削道鏡の子・一若に端を発し[要出典] 、蒙古襲来時に奮戦した河野通有などの河野氏支流で、通字河野氏通字「通」を現在まで継承している。 貞治5年1366年6月河野通實 [要出典]が宮崎郡下着その後数代経て河野伊予守正弘三俣院高城の有水村居住して長峯門を領し長峯土佐守称した。更にその後数代経て長峯玄蕃允通貴の代に真幸院三之山(のち小林郷、現・小林市東方村赤木門を知行したので孫の通信から赤木氏称するようになった赤木氏小林郷への移住時期明確でないが、真方邸宅斜め向かい地頭仮屋置かれたこともあり、江戸時代通して小林郷の郷士年寄幕末に噯(あつかい)と改称)5名のうちの1名を占めるなど、小林郷における名家一つであった男子がなかったため高岡郷の黒木土佐守二男清兵衛養子入って宗と名乗り、通宗の子・通昆の二男・通統が宝永5年1708年35をもって細野村水落分家した。その後分家から出た通園平田篤胤門下生となって国学修め天保初期より史料蒐集し明治4年1871年)まで約40年にも亘り執筆して郷土史小林誌』(全3巻)を著した。また明治6年1873年霧島岑神社夷守神社合祀の際には、宮崎県庁から手続き慎重を期すためとして意見を乞われたほどの学識者であった分家明治10年1877年)頃土地広げてかなりの地主になったが、通能の代に鹿児島検見崎氏への保証などのため財産激減。通能病没後の明治2732年1890年代後半)五日町(のち緑町野間移転した。通能の長男・通茂は造士館卒業し西諸県郡書記経て小林村(のち小林町議会議員に6回当選明治44年1911年)には宮崎県議会議員となり(1期)、大正10年1921年)から小林町長を2期10年務め道路整備神社改修尽力した赤木本家江戸時代高時には61石、幕末では本家分家とも50石を有していた。

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