新疆・チベット事務への関与とは? わかりやすく解説

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新疆・チベット事務への関与

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/06 11:21 UTC 版)

黄慕松」の記事における「新疆・チベット事務への関与」の解説

1931年民国20年11月中国国民党第4期候補執行委員選出される翌月中央海党務委員会委員新疆省党部指導委員となる。また参謀本部次長兼ねた。翌1932年民国21年)、ジュネーヴ開催され軍縮会議出席する9月参謀本部第1庁庁長に任ぜられた。 1933年民国22年4月新疆宣慰使に任ぜられ、6月ウルムチ到着する。このとき、前省政府主席金樹仁クーデタにより失脚し混乱最中にあった黄慕松国民政府意思として、主席代理つとめていた副主席教育庁庁長劉文竜正式に後任とした。黄は南京戻ったが、まもなく新疆省実力者である盛世才が兵変を起こして劉を拘束し実権掌握してしまう。後に国民政府はこれを追認せざるを得なかった。 同年9月黄慕松陸軍大学校長に任ぜられた。12月ダライ・ラマ13世円寂すると、翌1934年民国23年1月、黄は致祭達頼(ダライ専使に任ぜられる。8月チベット赴いて冊封祭祀に関わった。このとき、ダライ・ラマ13世を「護国弘法慈円大師」に封じている。 1935年民国24年2月インド経由して帰国する3月蒙蔵委員会委員長任命された。4月陸軍中将の位を授与される11月国民党第5期中央執行委員中央海党務委員会委員選出された。翌年7月広東省政府主席に任ぜられている。 1937年民国26年3月20日広州にて病没享年54同年4月陸軍上将追贈された。

※この「新疆・チベット事務への関与」の解説は、「黄慕松」の解説の一部です。
「新疆・チベット事務への関与」を含む「黄慕松」の記事については、「黄慕松」の概要を参照ください。

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