新水海城(内水海)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/27 16:43 UTC 版)
現在の古河市立水海小学校の南東にある小字「神明耕地」付近・俗称「城の内」にて、平成2~3年(1990-91年)、および平成4年(1992年)の2次にわたる発掘調査が行われ、後北条様式の城郭跡が確認された。これは前述の水海南部の城とは別の遺構である。小字「神明耕地」付近に1曲輪、さらに西側の「堀ノ内」に向けて2曲輪・3曲輪があったと想定される。1曲輪は50~70m四方、空掘の実効堀幅は10~11mを測り、近隣の逆井城・栗橋城との共通点から、永禄・天正期の構築と推定されている(『水海城址確認発掘調査現地説明会資料(1次・2次)』) 。 この城が天正 2年(1574年)の第三次関宿合戦で後北条氏に敗れ、関宿城を明け渡した嫡流・関宿簗田氏、すなわち、簗田晴助・ 簗田持助父子の新たな居城と考えられている。従って、前述の水海南部の城が傍流・水海簗田氏の居城とされた。以後の水海には、嫡流の新水海城と、傍流の旧水海城が並存した。なお、2つの水海城間の距離はおよそ1kmである。 その後、簗田氏は後北条氏に属したが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、7月の小田原城開城に先立つ5月、豊臣配下の浅野長吉の軍勢が迫り開城した。
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