新御代官
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寛保3年(1743年)7月9日に、政形は支配地増地の上で勘定奉行・神尾春央の配下へと異動した。 元文2年(1737年)6月14日に、老中の松平乗邑は勝手掛老中に任命されて幕府農財政の最高責任者となり、勘定奉行の神尾とその配下の勘定組頭・堀江芳極を中心として年貢増徴政策を進める。堀江の配下に、勘定方出身者を中心に構成され、関東各地に配属された「新御代官(しんおだいかん)」と呼ばれる8名の代官がいて、政形も新御代官の1人として松平乗邑の政策に協力した。 乗邑の増徴(増税)政策は、大名や旗本などの私領地は検地によって石高に結ばれた年貢を取ることのできる土地のみでそれ以外の「高外地(たかがいち)」は幕府のものであるという考えに基づき、これまで非課税だった高外地を天領・私領(旗本の知行地など)の区別なく課税するというものであった。 この政策は、それらの土地の農民や領主たちの抵抗で失敗に終わり、上総国の旗本知行地の山林から材木を切り出した政形も、領主である服部八郎五郎保房(やすふさ)の異議申し立てにより材木を返還させられている。政形は、岡田庄大夫俊惟(としただ)、青木次郎九郎安清(やすきよ)、蓑正高とともに「よろしき御代官」として将軍徳川吉宗にも高く評価されたが、その一方で松平乗邑の政策に従った「非義不仁(ひぎふじん)」な支配により百姓は虐げられ大いに困窮させられたとして、百姓たちが目安箱に直訴するにおよんだが、政形の上司の神尾春央やさらにその上の松平乗邑によって握りつぶされてしまい、吉宗にまでこの訴状が届かなかったと言われている。
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