斎藤と踊り子たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 00:02 UTC 版)
踊り子や従業員の面倒を家族のように見る斎藤は、皆に「ママ」と呼ばれた。踊り子の体調が悪くなると「ママが踊るから寝なさい」と言って休ませ、自ら舞台に上がり続けた。裏ビデオの女王と呼ばれた田口ゆかりが斎藤のもとで踊り子となった後、覚醒剤所持で逮捕となっても「あの娘は薬に負けているだけ」と庇い、「薬をやめて、劇場の切符切りでも電話番でもいいから、地道に働いてほしい」と願っていた。 踊り子たちの育成を子育てと同様に考えて、「縛りすぎると反発する、甘やかすと駄目になる、ほど良い加減で管理する」が、踊り子に対する主義であった。小言を言わないことも主義であったが、唯一、「夢中になると仕事に集中できなくなり、生活が荒れる上に、給料も使い込んでしまう」との理由で、ホストクラブへの出入りだけは禁止していた。 北海道小樽市での公演中に警察の取り締まりに遭った際には、他の踊り子たちを逃がし、自分だけが舞台で踊り、警察に連行された。警察で事情徴収を受けていると、10人以上の踊り子たちが「私たちも捕まえてくれ」と警察に駆けつけ、始末書のみで済んだという。 上山田温泉の劇場である上山田ロック座の支配人は「困った子には前貸しもしていましたしね」「当時ママは土日でも金が引き出せる斎藤銀行と呼ばれていました。気っ風がいいからあっと言う間に何十人という踊り子がママの周りに集まって来たんです」と語っている。後述する大勝館には食事処が併設されており、これは踊り子たちが食事に困窮することのないようにとの配慮でもあった。 踊り子たちを宝物と考える斎藤は、踊り子の芸名に、宝由加里、宝京子のように、よく「宝」の字を用いた。東弘美、東茜のように、自分の芸名「東八千代」の「東」の字を継がせることもあった。特に華があると見た踊り子には「東八千代」の名そのものを継がせ、二代目東八千代から、八代目東八千代まで続いた。東八千代の名はトップスターを意味することから、後継者の苦労は並大抵のものではなかった。たとえば三代目東八千代は、襲名の条件は「結婚しないこと」で、舞台に上がる限りはダンス一筋で、人生を舞台に賭ける覚悟でいたという。 年をとった踊り子のためには、様々な仕事を用意した。20歳代では踊り子、40歳ほどまでは芸者、その後は劇場のもぎり、料理人、裁縫、喫茶店や居酒屋の支配人と、次々と仕事を用意していた。踊り子を引退後に斎藤の身の回りの世話をする60歳代の女性もいた。これらの仕事の用意のため、1989年(平成元年)には上山田に芸者置屋「一力」を開業して、検番も務めていた。上山田ではスナックなども経営して、座敷の終わった芸者が働けるよう計らっており、週末の夜は満員で入店が困難なほどの盛況であった。これらは、踊り子の就職先の世話のみならず、温泉地の活性化にも繋がるとの考えがあった。踊り子の1人が交通事故に遭って舞台に上がることができなくなり、斎藤の手引きで、ロック座の売店の店員として働いたこともあった。 元ロック座所属の踊り子の1人・雅麗華は、斎藤の養女でもある。踊り子であった生母が6歳のとき失踪、その2年後に父が死去したことで斎藤が引き取り、後に劇場に出入りする内に舞台に憧れ、1985年(昭和60年)にデビューに至ったのである。一時は「踊り子にするために養女をとった」などと新聞や雑誌で叩かれもしたが、やがて2007年引退時には新聞にニュースが載るほどの人気の踊り子の1人となった。
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