文化面への影響など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 16:38 UTC 版)
「桜島の大正大噴火」の記事における「文化面への影響など」の解説
大正大噴火時、鹿児島市出身の黒田清輝は、病床にあった父を見舞うため鹿児島市に滞在中であった。噴火に遭遇した黒田は、現地調査に赴いた大森房吉に同行したり、弟子にあたる大牟礼南塘、山下兼秀を伴って数回桜島に赴いた。なお大牟礼南塘は鹿児島での洋画の創始者とされ、山下兼秀は鹿児島洋画壇の黄金期を作ったと言われている。 鹿児島市立美術館に大正大噴火を描いた黒田清輝の油絵作品6点、山下兼秀の油絵作品が1点、鹿児島県立博物館には山下兼秀の油絵作品5点が所蔵されている。また国立科学博物館に大牟礼南塘が描いた大正大噴火の油絵2点、山下兼秀の油絵が1点所蔵されていることが確認された。 黒田の描いた油絵は、今村明恒が譲り受けて今村の死後、遺族が鹿児島市立美術館に寄贈したものである。一方、国立科学博物館に所蔵されている大牟礼南塘と山下兼秀の油絵は大森房吉の要請を受けて描かれ、大森の手に渡った後に東京大学の地震学教室に飾られていたものが、1971年に国立科学博物館に寄贈されたと考えられている。国立科学博物館に収蔵された後、約40年間は資料庫に置かれたままで劣化が進んでいたが修復作業が行われた。国立科学博物館所蔵の大牟礼と山下の油絵は美術作品として鑑賞できる水準の作品であり、また鹿児島での洋画の創始者である大牟礼、鹿児島洋画壇の黄金期を作った山下の作品は美術史的にも価値があり、美術館等での展示などでの活用が期待されている。 1969年、新田次郎は小説エース誌上に「桜島」を発表する。「桜島」は大正大噴火と当時の鹿児島測候所の対応をベースとして、桜島の噴火観測に執念を燃やす主人公の奮闘を描いた小説である。「桜島」を書くに当たり新田次郎は現地桜島を踏破し、鹿児島で小説を完成させた。小説内では新田次郎本人が長年勤めていた気象台での体験の反映が見られ、そして新田の叔父にあたり、大正大噴火時に鹿児島測候所長の鹿角義助擁護の論陣を張った藤原咲平の逸話を加え、火山研究と予知、そして地元民との関係について掘り下げた内容になっている。 明治、大正期に活躍した演歌師・添田唖蝉坊が発表した流行歌「まっくろけ節」の歌詞に、桜島噴火の模様が唄いこまれている。 桜島 薩摩の国の 桜島 煙を吐いて 火を噴いて 十里四方が まっくろけのけ オヤオヤまっくろけのけ
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