揺れる存続問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 11:27 UTC 版)
「ルクセンブルクの歴史」の記事における「揺れる存続問題」の解説
ルクセンブルクは独立は果たしたものの、その立場は微妙であった。特に1839年に結ばれたロンドン条約はベルギーとオランダの対立を解消するためのものでしかなく、ルクセンブルクについてはあくまでも暫定措置でしかなかった。そのためルクセンブルク独立について事細かに制定されておらず、オランダやベルギーのみならず、フランス・ドイツも併合を主張することができた。特にドイツは、プロイセン軍がルクセンブルク市に駐屯しているという事情があった。1848年にドイツ統一を目的とした議会がフランクフルトで開催されると、ルクセンブルクを含めてドイツ連邦所属国は全て代表を送るよう要請され、ルクセンブルクの危機が迫ったが、結局この議会は失敗に終わり、ルクセンブルクの独立は保たれた。 1866年に普墺戦争が勃発すると、ルクセンブルクは慎重な姿勢を示し、中立を保った。戦後、北ドイツ連邦が形成されたが、プロイセンの宰相ビスマルクはルクセンブルクの不参加を承認した。しかし、ルクセンブルクには息をつく暇もなく、次の危機が迫っていた。ルクセンブルクはこの時点でもオラニエ=ナッサウ家の個人所有であったが、それを見越したフランス皇帝ナポレオン3世がオラニエ=ナッサウ家当主ギヨーム3世に買収を持ちかけ、ギヨーム3世もこれを承諾した。 またベルギーもこの状況に至り、ルクセンブルクの領土は1839年に譲ったに過ぎず「引き裂かれた兄弟」としてルクセンブルクの「返還」を主張、ルクセンブルクの独立は風前のともし火になるかと思われ、ある人物は「国の存続ができるとは思わない」と書き残している。 プロイセンはルクセンブルクに部隊を駐屯させていることやその戦略価値から猛烈に反対、プロイセンとフランスの激突は秒読み寸前にまで至っていた。しかし1867年5月、この事態を憂慮した列強各国がロンドンで会議を開いて妥協点を模索、結局、イギリス・フランス・プロイセン・オーストリア=ハンガリー・イタリア・ロシアらの保証の元、ルクセンブルクは非武装永世中立国とされることが決定、プロイセン軍は引き上げ、さらにルクセンブルク城塞も解体された。 しかし1870年、普仏戦争が勃発するとその状況が一変した。当初、プロイセン軍は中立国であるベルギー、ルクセンブルクを通過せず、ロレーヌ経由でフランスを攻撃、ルクセンブルク政府も国民に中立を呼びかけたが、国民の同情はフランスに向いていた。さらに、プロイセン軍が勝利を収めるに従い、ドイツの新聞はルクセンブルクの併合を論じ始めた。しかし、ルクセンブルクの人々はそれに対抗、ギヨーム3世の弟であるルクセンブルク総督アンリ(ヘンドリック)王子に請願書を手渡し、ルクセンブルクの独立と中立を要請した。そして、ルクセンブルクの人々は国歌をもじって“Mir wëlle jo keng Preise gin”(我々はプロイセンにはならない)と歌い、ナショナリズムの高揚が始まった。しかし1870年12月、ビスマルクはルクセンブルクへ東フランス鉄道会社(ルクセンブルクの鉄道と路線を結んでいた)が怪しい行動を行っているとして「プロイセン政府は軍事作戦においてルクセンブルクの中立を考慮しない」と威嚇的な通告を送った。これは領土についてではなく鉄道についての通告であり、ギヨーム鉄道網はドイツの管理下に置かれ、1872年には鉄道を譲渡させたが、この状態は普仏戦争終了後も続き、ルクセンブルクの経済面をドイツが支配することとなった。しかし、ルクセンブルクではナショナリズムの高揚が続いており、総人口20万のうち成人男子4万4千人らが独立を保つ請願書に参加している。
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