成人まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 10:48 UTC 版)
「フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「成人まで」の解説
フリードリヒが生まれた当時のシチリア島は、ノルマン人王朝(オートヴィル朝)建国前から根付いていたイスラム文化とビザンティン文化、ラテン文化が融合しており、独特の文化を生み出していた。インノケンティウス3世はフリードリヒの元に高位聖職者からなる家庭教師を兼ねた執権団を派遣するが、執権団が到着した時、4歳のフリードリヒはすでにラテン語を習得しており、歴史と哲学の書籍を読み始めていた。幼少のフリードリヒは自分を利用しようとする周りの党派に翻弄され、1202年から1206年の間にはマルクヴァルトの人質にもされた。人質生活の中では必需品にも欠き、同情したパレルモの市民たちはフリードリヒに食糧を分け与えた。フリードリヒはパレルモの文化の影響を受けて成長し、ラテン語・ギリシア語・アラビア語などの6つの言語を習得し、科学に強い関心を示すようになった。また、フリードリヒは肉体面においても馬術、槍術、狩猟で優れた才能を示した。 一方、帝国北部(ドイツ)ではシュヴァーベン公フィリップを支持する派閥とヴェルフ家のオットーをローマ王に推す派閥に分裂しており、それぞれの派閥に属する諸侯が互いに争っていた。1208年にフィリップが暗殺されると、インノケンティウス3世の働きかけを受けた諸侯は11月にオットーをローマ王に選出した。 1209年に成年を迎えたフリードリヒは10歳年上のアラゴン王国の王女コスタンツァと婚約し、シチリア王位を望む意思を表明した。コスタンツァは女官、吟遊詩人、騎士団とともにパレルモに入城し、フリードリヒは彼女からプロヴァンス詩と洗練された宮廷生活を教わった。この年フリードリヒが成年に達したため、インノケンティウス3世は後見人の地位から降りなければならなかったが、フリードリヒがローマ王位を継ぐことを恐れたインノケンティウス3世はオットーの戴冠式を強行し、オットーが帝位に就いた。
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