悲喜こもごものドラフト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 05:55 UTC 版)
「1966年のメジャーリーグベースボール」の記事における「悲喜こもごものドラフト」の解説
前年から始まった新人選手のドラフト会議で、この年前年最下位のニューヨーク・メッツが全体で最初の1位指名権を得ていた。この1年前の史上初のドラフト会議で全体で最初の1位指名権を得ていたアスレチックスはアリゾナ州立大のリック・マンディ外野手を1位指名し、さらに6巡目に同じアリゾナ州立大のサル・バンドー内野手を指名した。1年後のドラフトではこれら選手と同じアリゾナ州立大でのチームメートだったレジー・ジャクソン外野手が注目株とされて、どこの球団が1位指名するかが焦点であった。当然メッツがレジー・ジャクソンを指名するものと思われたが、メッツはジャクソンではなく他大学のスティーブ・チルコット捕手を1位指名した。おかげで2年連続アメリカンリーグの最下位であったアスレチックスがレジー・ジャクソンを指名し獲得した。そして後にレジー・ジャクソンはアスレチックスで1972~1974年のシリーズ3連覇に貢献し、やがてFAでヤンキースに移り1977~1978年のシリーズ連覇に貢献し、特に1977年のシリーズ最終戦での3打席連続本塁打は『ミスター・オクトーバー』のニックネームとともにファンに強烈な印象を残した。 一方この年に全体で最初の1位指名を受けてスティーブ・チルコットはメッツに入団したが、一度もメジャーリーグに上がることなく終わった。そして以後50年が過ぎた長いドラフトの歴史で全体で最初の1位指名を受けて入団した選手の中で、投手を除いて一度もメジャーリーグに上がれずに終わった野手は2017年現在スティーブ・チルコットが唯一の例である。 またこの年1月のドラフトでアトランタ・ブレーブスが南カリフォルニア大のトム・シーバー投手を1位指名したが、大学野球の規定に違反した契約をしたことで契約は無効となり、コミッショナーの裁定で救済措置として改めてブレーブスが提示した契約金額と同等の条件を了解した3球団が抽選してニューヨーク・メッツが交渉権を得て、シーバーはメッツへの入団が決まった。トム・シーバーは翌年新人王となり、ニューヨーク・メッツのエースとなり通算311勝の大投手となった。
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悲喜こもごものドラフト
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「1986-1987シーズンのNBA」の記事における「悲喜こもごものドラフト」の解説
ドラフトではブラッド・ドアティがクリーブランド・キャバリアーズから全体1位指名を受けている。 この年のドラフト候補生達は薬物問題でリーグを悩ませた。特にボストン・セルティックスから全体2位指名を受けたレン・バイアスは、指名を受けた二日後に薬物濫用が原因で死亡してしまった。さらに3位指名のクリス・ウォッシュバーン、6位指名のウィリアム・ベッドフォード、7位指名のロイ・タープリーらはいずれも薬物問題で、そのキャリアに大きな傷を負っている。一方彼らが薬物問題に足を取られたことで、スターへの扉は下位指名者に対して開かれた。マーク・プライス、デニス・ロッドマン、ケビン・ダックワース、ジェフ・ホーナセック、ドラゼン・ペトロビッチら後にオールスター出場、あるいは殿堂入りする選手は、ドーアティーを除いては皆2巡目以降の指名だった。他には、チャック・パーソン、ロン・ハーパー、ジョニー・ドーキンス、ジョン・サリー、ジョン・ウィリアムズ(英語版)、ウォルター・ベリー、デル・カリー、ハロルド・プレッシー、スコット・スカイルズ、アルヴィーダス・サボニス(1984年に続き二度目)、グレッグ・ドリーリング、ジョニー・ニューマン、ネイト・マクミラン、デビッド・ウィンゲイトなどが指名を受けている。 この年に指名を受けた選手の中で、後にヘッドコーチとなった選手にネイト・マクミラン、スコット・スカイルズが居る。また前季のドラフトに続き、この年もアメリカ国外から優秀なバスケットボール選手2人がNBA入りしたが、しかし彼らのキャリアは様々な困難に突き当たった。3巡目60位指名を受けたクロアチア出身のドラゼン・ペトロビッチは優秀なシューターとしてニュージャージー・ネッツなどで活躍したが、1993年に交通事故に遭い急逝。僅か4年のNBAキャリアに幕を閉じた。ソ連出身のアルヴィーダス・サボニスは1巡目24位指名を受けたが、冷戦下にあった当時、サボニスは渡米を許されなかった。その後サボニスはソウル五輪にソ連代表として出場し、決勝でアメリカ代表に歴史的な敗北を味わわせている。サボニスがようやくNBA入りを果たしたのが、選手としてのピークが過ぎた1995年だった。 オールスターにはB・ドアティ、M・プライス、D・ロッドマン、K・ダックワース、J・ホーナセックの5人が選出されている。
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